坂口安吾|飛騨・高山の抹殺 ⑯|死をまぬがれる聖泉

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坂口安吾 の 新日本地理「飛騨・高山の抹殺」について。(その ⑯)

安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺 ⑯

「安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺」というお話は、「青空文庫」で、読むことが出来ます。

\ 全文はこちら /

おねがい:古代飛騨ついて
坂口安吾の「飛騨に関する文章」や 飛騨の伝承 は、えてして「何かを隠したい相手」への 批判 を伴いがち です。

が、私がこれらを記事にする目的は「誰かや何かへ対する批判」ではありません。

複数の立場から書かれた異なる伝承(「記紀」含む)の内容から「そうした言葉が残された背景を知りたい」という思いがメインです。

その点を、ご理解の上、読んでいただけると有難いです。

(堅苦しくなりましたが、要は「和やかにいこうね」っておねがいです)

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「白黒の文字」だけだと、情報が上手く入らない「ポンコツ脳」なので、自分の為にちょっと整理してみました。↓↓↓

死をまぬがれる聖泉

青空文庫編:安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺――中部の巻――坂口安吾

↑↑↑ 上記の内容に「改行」「空白」「…」「リンク」「補足」「画像」等 をプラスさせていただきました ↓↓↓

前の記事:その ⑮

※ 「斜体」が「坂口安吾」の文章です。↓↓↓

持統天皇 即位前記の条に「この年 と交ってニワカに ともに死んだとありますが、これは ヒダシナノ が反乱したことを表していると思います。

日本武尊信濃 ではに助けられて その兄 大碓オオウスヒダで死んでますが、だいたい シナノ犬養 だの カラ犬 だのと に縁が多いところ で、ヒダヘビ に縁が多いところ です。

<ヤマトタケルと信濃の犬
東国を平定して帰還途中の日本武尊一行は、山深い信濃の道中で迷ってしまった。そこに山の神が白い鹿に姿を変えて現れ、道をさえぎる。

日本武尊は(ひる)を投げて白い鹿を倒したものの、急に道も方角もわからなくなってしまう。

そんな時、どこからともなく白い山犬が現れて、導かれるように一行は美濃へ出ることができた。

(引用:歴史人:古代日本の犬物語 『古事記』や『日本書紀』に描かれる人と犬の不思議なストーリー

 

<大碓と飛騨の蛇
大碓命は 美濃に封じられてのち 当地方の開拓に尽くしたが、景行天皇52年に 猿投山 に登る中途で 蛇毒 のため42歳で亡くなったという。(大碓命の墓が 猿投山の山中、猿投神社 の西宮後方に所在する)

(※ ただし「大碓命 もしくはそのモデルとなった王族が ヤマト王権の 美濃平定において 重要な役割を果たして そのままこの地を支配した」であろうものの、猿投神社 説は 記紀にも延喜式諸陵式にも記載されていない。

→ 比較的後世に作られた説

→ 大碓命の事績からして 美濃国内に 陵墓があった と考えるのが適切

→ 大碓命の墓としては、規模と築造年代から 岐阜県大垣市にある 昼飯大塚古墳 がその有力な候補であるとしている)

(引用:Wikipedia大碓皇子


次の 文武元明 両帝は 各々 信濃坂 が険しいからと、ミノ 木曾 間の道 をひらいております。

つまり 今までの ヒダシナノ間 の道が 危険で通れなくなったからでしょう。

<メモ>


そして、これによって 知りうる 他の一ツは、

平地の道や  川の舟行 よりも アルプス越えの道 の方が 早くできていた

…という一事で、

ヒダは 馬の国 だと云われ、ヒダ の字はそのせいで後日改められたと云われるぐらいですが、書紀にも スクナの早業 という特徴が書き加えられていた如くに、彼ら ヒダ人は この アルプスの難路を にのって 風のように 走りまわっていた のではないでしょうか。


そして次の 元正女帝 に至って、ミノの行宮へ行って タド山美泉をのんで、あんまり 霊験イヤチコだからと、年号を変えて大赦を行っている のです。

なるほど、書紀に表現された 日本武尊の伝によると、近江ざかいにちかくて 伊吹山 にもちかい タドの美泉が 死なんとする日本武尊一度正気に返した清水 だということになります。


しかし実際に 日本武尊、否、大友皇子、否、天武天皇 との戦に敗走した さる高貴な人美泉 をのんで いったん死をまぬかれた 聖泉 というのは、前述の如くに 書紀の記述が 両面神話の要領により アベコベであって信用できないとすると、書紀の示す 美泉は 正しいタドの美泉ではない ことになる。

ぽの

???


スクナ伝説ならば 藍見喪山の近所にあるべき泉であろうし、ワサミを下原村あたりとするなら、下呂に当るかも知れん。

二ツのどちらか、それは 見当がつきかねますが、とにかく 書紀の示す美泉が タドの美泉でないこと は確かだ

しかし、自分の 御手製の史書 では それが タドの美泉 に当るから、それは 自分の言ってることに従うべきで、さもなければ  自分のウソを広告するようなもの だ。

そこで、タドの美泉 は 霊験イヤチコで、改元し、大赦を行う に価いするほどであると云って、ヒダ人が 神聖なる霊地とする泉 を トコトンまでほめあげた。


天武帝筑摩 の温泉へ 行宮をつくろうとしたのも、シナノ側にもある 神聖なる霊泉を ほめたてて 敵を喜ばせて 敵にとりいる コンタンであったかも知れません。

養老三年に ヒダの位山のイチイの木 で笏をつくることを故実ときめたのも、ヒダ を喜ばせて ヒダにとりいる コンタンらしい。


しかし、それから二年後には 信濃 から 諏訪 を分離して、ヒダスワ の二国を合せて ミノの 按察使アゼチ の支配下においた。

その時までは ヒダには 国守 を送った記事は 一度もなくて、養老五年に 至って、ヒダスワ の二ツを、一まとめにしてミノの按察使の 支配下においた

そして 国守 は 送っておりません。

<メモ:国司国守按察使
按察使は、それまでの 巡察使 に代わる 国司監察 の制度。

有力な国守に近隣の数国を管轄させ、国司の政治の状況を監視させるものであった。

(引用:多摩市デジタルアーカイブ:国司と按察使


甚しい 特別扱いですが、それでも一歩前進して、とにかく、ヒダ に カントク者らしき者 をきめ、ヒダの支配者 たる形式に一歩ちかづいたものと見られましょう。

敵の霊泉をほめたたえた計略が だんだん図に当ってきたのでしょうかナ。

次の 聖武天皇 の時代には、ミノの 不破頓宮新羅楽ヒダ楽 をやらせたという。

この不破頓宮 は 元正行幸 の タド に近い 不破の関 ではない筈です。

これは ワサミワサミに近い 実際の 前線指揮処だった 行在所 で、つまり その地点で 天皇が 大友皇子 の 首実検をしたところ だ。

そこも ヒダ人  聖地中の聖地 であった筈であります。

ヒダ楽 は分りますが、新羅楽 の方は 大和朝廷側 の 音楽 なのかも知れませんな。

両者の霊なる楽の音で 死せるミコ を 慰めた のでしょうか。

※ ↑↑↑「斜体」が「坂口安吾」の文章です。

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関連場所の地図

参考サイト

安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺 ⑯|まとめ

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以上、

「安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺 ⑯」についてのブログ記事でした。

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