大物主 という神は、日本神話の中ではよく知られた存在です。
けれど、いざ「どんな神なのか」と聞かれると、少し言葉に詰まってしまいます。
主神として語られることもあれば、背後に控える存在のように 扱われることもあります。
このように、「圧倒的な力を持つ存在」として語られる一方で、その性格や意志は、ほとんど説明されません。
出雲神話では、判断や役割が一人に集中しにくく、物語の「中心」が定まりにくい傾向があります。
この「はっきりしなさ」は、情報が欠けているからなのか…?
それとも、あえて語られていないのか…?
この記事では、大物主を 正体や結論としてではなく、「語られなさ」そのものから読んでみたいと思います。
大物主は「有名」なのに、輪郭がはっきりしない

大物主は、名前はよく聞きますし 多くの人が知っている神様ではあります。
…が、その「性格・姿・役割」はとてもつかみにくい神様です。
私なんて…
子どもの頃から 氏神様(大物主神社 )として、長年 お世話になってきたにも関わらず「何の神様なのか?」は、よくわからずにいましたし。
「何の神様か」を説明しようとすると、言葉が出てこない… この感覚は、今も変わっていません。
記紀や出雲風土記での、大物主の扱われ方
大物主を表す 有名な言葉として「大国主の 幸魂・奇魂(※1)」があります。
…が、「大国主=大物主」ではないとされることで、ますます 混乱を深めるだけだったりしがちですよね。
※1:幸魂・奇魂 とは?
- 神様の 御魂 奇和魂 が持つ二つの働きで、幸魂 は幸福や繁栄をもたらす魂
- 奇魂 は不思議な力や知識、技術、統一を司る魂
大物主は、古事記や 日本書紀では、重要な局面で 名前が挙がります。
<参考>
・Wikipedia:大物主
ある時は、出雲の 大国主が 国造りで行き詰っている場面で 颯爽と現れて「自分(大物主)を祀れば上手くいくよ」と 助けを出し に現れたり。(→ 祀ったら上手くいった)
また ある時は、大きな祟りをもたらす存在 として恐れられ、鎮められるべき神として位置づけられたり…。
物語の流れを左右するほどの力を持ちながらも、いずれの場合も「なぜ助けた?」や「なぜ祟った?」などは不明のままで。
その「大きな力」のわりに、大物主自身の言葉 や 性格 が詳しく語られることは ほとんどありません。
(現れる時の姿は 「光り輝く姿」だったり「赤い丹塗り矢」だったり「蛇」だったりと定まりませんし…)
物語を動かしているのに、物語の中心には立たない…そんな距離感があるように見えるのが 記紀においての 大物主 だったりします。
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一方、出雲国風土記 に目を向けますと、語られ方の質がさらに変わります。
出雲国風土記には、「大物主」という神名は現れないのです。
それでは、出雲に「大物主」はいなかったのか?
そうではありません。
「出雲国造神賀詞(※2)」の中には、大物主 が「皇室を守護する神」として登場します。↓↓↓
※2:出雲国造神賀詞とは?
- 新任の出雲国造が 天皇に 臣従と 出雲の神々への 信仰を誓い、天皇の長寿と 国家の繁栄を祈るために奏上する 荘重な祝詞
- 『延喜式』祝詞の最古の地方祭祀祝詞であり、出雲神話と朝廷の祭祀が結びつく重要な文献
賀夜奈流美命乃御魂乎
飛鳥乃神奈備尓坐天皇孫命能
近守神登貢置天、→ カヤナルミ命の御魂を 飛鳥の神奈備におられる 天皇の御孫命の近くを守る神として貢ぎ置いて
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大物主櫛甕玉命、
阿遅須伎高孫根乃命、
事代主命等乎→ 大物主櫛甕玉命、阿遅須伎高孫根命、事代主命らを
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皇御孫命乃
守護神登定奉留事乎
白佐久→ 皇御孫命の守護神 として 定め奉ることを申し上げます
「語られない」は、欠けていることなのか
先に書いた「出雲国造神賀詞」の通り、大物主は「出雲と朝廷を繋ぐ重要な神」であるにも関わらず、出雲風土記 では語られません。
両者を鑑みると、大物主が、出雲に「存在しない」… もしくは 出雲にとって「重要な神ではない」ために 語られていない… ということではなさそうです。
では、なぜ語られないのか?
語ってしまうとどうなるか?
ハッキリと 読み解きやすい言葉(神話)で 残してしまうと、その「存在の意味」の固定に繋がります。
固定されるとどうなるか?
意味が限定されると、その神は「何をもたらす存在か」という判断の対象になります。
判断はやがて、成否や正誤を分け、敵味方を分断する要素となりえてしまいます。
分断は「争い」を生みます。
その存在が 重要であるからこそ、語ってしまうことによって「争い」が起きることを避けたかった…
むしろ、
「避けたい」という消極的思考ではなく、「あらゆるモノを受け止める」ための、積極的な「安全装置」として、大物主 という存在は 設計されているように感じるのです。
「固定」されないということは、流動性があり、あらゆるモノを 受け止める可能性が生まれます。
これは、「出雲の真ん中を定めない思想(※3)」 とも繋がる感覚だと思うのです。
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※3:「出雲の真ん中を定めない思想」についての 詳細は以下の記事を 併せてお読みいただけると嬉しいです
主神なのに、前に出ないという在り方
大物主は、天皇の守護神でありながら、その天皇を 祟ることもあるなど、祀るだけでなく、鎮める対象となる こともあります。
主神級の力を持つ存在として扱われているものの、不思議なことに、大物主は「判断を下す神」として描かれることはありません。
姿を表した時に、発する言葉は「自分を祀れ」くらいで。
その理由などは一切語りません。
何のために?
誰のために?
どんな理由があって、祟ったのか?
誰が正しいのか。
どちらが勝つべきなのか。
そうした結論の場に、大物主は 立つことがないように見えます。
表に立たず、中心にも座らず、それでも、物語の “外側” から全体に関わっている。
大物主の特徴は、性格ではなく、その「立ち位置」にあるように見えます。
その「立ち位置」は、語らないこと(沈黙)でしか生まれない「立ち位置」であると思うのです。
だから私は、大物主を読み続けたい
この記事では「大物主の正体」を決めることはしません。
「出雲の神」か?「三輪の神」か?
「土着神」か?「調停者」か?
「守護神」か?「祟り神」か?
どれか 一つに決めてしまうと、きっと、この神 は さらに 本来の存在の役割から 遠いものと なってしまうと感じるのです。
語られなかったこと。
語られなさが、今も保たれていること。
その「沈黙」のあり方そのものが、大物主 という 神の輪郭 なのではないか…
そう思うので、私はこの神を、これからも 結論を出さずに 読み続けたいのです。
語られなかった神を、語られなさのまま読み続ける。
それが、私にとっての大物主です。

