飛騨口伝に見える“基本姿勢”を読む|淡方様に関する語りを手がかりに

飛騨の口伝を読んでいると、どこか噛み合わない感覚が残ります。

<参考:飛騨の口伝>
裏古事記日本人のルーツ飛騨

世界は乗鞍岳から発生した…と語られる一方で、淡方様は絶対的な統治者としては描かれません。

それは情報が欠けているからではなく、最初から「そう語らない」という選択があったようにも見えます。

この記事では、淡方様に関する語りを手がかりに、飛騨口伝に一貫して見える “基本姿勢” を読もうとしています。

飛騨口伝において、淡方様は「中心」に置かれていない

飛騨口伝の中で淡方様は、確かに名前の挙がる存在です。

淡方様については、どのような神格なのか、どこから来たのか、誰を従え、何を統治したのか、といった説明が、ほとんど与えられません。

淡方様については、どのような神格なのか、どこから来たのか、誰を従え、何を統治したのかといった説明が、ほとんど与えられません。

それでも淡方様は、物語の外に置かれることなく、世界や人の営みが語られる場面の前提として、自然に存在しています。

飛騨口伝では、淡方様を中心に据えて秩序を組み立てたり、他の存在をその周囲に配置したりする語りは選ばれていません。

淡方様は「中心に置かれていない神」というより、中心として語る必要のない存在として扱われているように見えます。


なお、飛騨口伝を読む中で、「淡山…すなわち乗鞍岳から世界が始まった」

「飛騨こそが世界の起点なのではないか」と感じる人がいるのも、自然なことかもしれません。

しかし、口伝そのものは、その始まりをもって他を従わせたり、正統性を主張したりする語り方を選んではいません。

世界の始まりが語られても、そこが「中心として君臨する場所」であるとは語られない。

この距離感こそが、飛騨口伝の特徴の一つなのではないでしょうか。


ここで語られているのは、誰が上で、誰が下かという序列ではなく、世界が立ち上がるための前提が、どこに置かれているかという感覚です。

淡方様は、その前提が成立していることを示す存在として、静かに語りの中に置かれているのではないでしょうか。

飛騨口伝では、「語られない」のではなく「前提として置かれている」

淡方様は飛騨口伝の中で中心として語られる存在ではありません。

しかしそれは、重要でないからでも、語る価値がないからでもないように見えます。


飛騨口伝をもとに、「日本神話の起点は飛騨にあるのではないか」

「神話はここから始まったのではないか」という読みが生まれることもあります。

ただ、その読みは、飛騨口伝が語ろうとしていることというより、読み手が後から与えた意味に近いのかもしれません。

飛騨口伝は、始まりを語っても、それを体系化しようとはせず、起源を示しても、正統を宣言することはありません。

そのため、「はじまり」をどう受け取るかは、常に読む側に委ねられているように見えます。


淡方様について語られないのは、情報が失われたからではなく、最初から「説明の対象」として置かれていないからではないでしょうか。

飛騨口伝では、神を定義し、性格や役割を整理してから物語を始める、という語りの順序そのものが選ばれていません。

そのため淡方様は、理解されるべき存在、解釈されるべき対象としてではなく、すでに在るものとして語りの前提に置かれている存在として現れます。

世界が立ち上がること、人の営みが始まることは、淡方様を説明することなく、自然に語られていくのです。

ここで重要なのは、淡方様が「語られない神」なのではなく、語らなくても成り立ってしまう位置に置かれている神だという点です。

中心として語られないことと、前提として置かれていることは、この口伝の中では矛盾していません。

飛騨口伝は、世界の秩序や神々の序列を明らかにするための語りではなく、世界が成り立っている状態そのものを、そのまま語ろうとしています。

淡方様が説明されすぎないのは、この語りの姿勢を保つための、意識的な選択だったのかもしれません。

飛騨口伝が描くのは「対立の結果」ではなく「関わりの前段」

飛騨口伝を読んでいると、「世界は淡山(乗鞍岳)から立ち上がった」という語りに出会います。

この表現は、強い印象を残しますし、そこから「飛騨こそが世界のはじまりなのではないか」と感じる人がいるのも、無理のない流れに思えます。

けれど、このとき起きているのは、飛騨口伝の内容そのものというより、読み手の側で行われる意味の変換なのかもしれません。

「はじまり」として語られたものが、いつの間にか「中心」や「正統」へと読み替えられていく。

その変換点に、私たちは立っているように見えます。

飛騨口伝では、世界の成立が語られても、そこから秩序や序列を組み立てる方向には進みません。

「ここから始まった」という語りはあっても、「だからここが上位である」「ここが正しい」という主張は伴わないのです。

しかし、後からその語りを受け取る側は、無意識のうちに「はじまり=中心」「中心=支配や正統」という枠組みを当てはめてしまうことがあります。

その結果、飛騨口伝が語らなかったはずの主張が、あたかもそこに含まれていたかのように読まれてしまうのです。

このズレは、飛騨と出雲のどちらが正しいか、どちらが古いかといった対立から生まれたものではなく、語りの構えと、読む側の感覚との間に生じたものだと考えることもできます。

飛騨口伝は、はじまりを語っても君臨を語らない。

けれど読む側は、その沈黙を埋めるように、「中心」という言葉を置いてしまうのです。

ここで問われているのは、飛騨口伝が何を語ったか以上に、私たちがそれをどう読んでしまったかなのかもしれません。

この変換の地点に気づくことが、淡方様を手がかりに飛騨口伝を読む上で、大きな分かれ目になるように思えます。

淡方様を通して見える、飛騨の“基本姿勢”

ここまで淡方様の語られ方を追ってくると、飛騨口伝に一貫して流れている“姿勢”のようなものが、少しずつ浮かび上がってきます。

それは、中心を定めないこと。

起源を語っても、正統を主張しないこと。

世界の始まりを示しても、そこに君臨しようとしないこと。

淡方様は、世界を統べる神として語られることも、秩序の頂点に置かれることもありません。

けれど同時に、無関係な存在として切り離されることもなく、世界や人の営みが立ち上がる前提として、自然に置かれています。

この配置は、「飛騨こそ中心だ」と主張するためのものではなく、また「中心がない」と言い切るためのものでもありません。

中心かどうかを問題にする以前に、そうした問いそのものを立てない構えが、飛騨口伝には保たれているように見えます。

淡山(乗鞍岳)から世界が始まったと語られても、それは支配や序列を生み出すための物語には変換されません。

始まりは示されるけれど、そこから誰が上で、誰が下かを決める方向へは進まない。

淡方様の語られ方は、その姿勢を最も端的に表しているように思えます。

飛騨口伝が残してきたのは、答えや体系ではなく、世界をどう語らないかという態度だったのかもしれません。

淡方様を通して見えてくるのは、何かを強く打ち立てるための神話ではなく、語りを開いたままにしておくための、慎重な姿勢なのです。

なぜ飛騨の口伝は、いまも読み直されるのか

飛騨口伝は、何かを証明するための資料でも、新たな正統を打ち立てるための神話でもありません。

それでもなお、読み返したくなるのは、そこに残された語りの “姿勢” が、今の私たちの感覚と静かに響き合うからかもしれません。

はじまりが語られても、中心は宣言されない。

重要な存在がいても、その正体や序列は固定されない。

飛騨口伝は、世界を一つの物語に回収しきらないまま、語りを開いた状態で残しています。

私たちはつい、

「どこが中心なのか」
「何が正しいのか」
「どこから始まったのか」

…と、答えを求めて読み進めてしまいます。

けれど飛騨口伝は、その問いに応えるよりも先に、問いそのものの立て方を問い返してくるように見えます。

淡方様の語られ方を手がかりに見えてくるのは、強い主張ではなく、語りを閉じないための慎重さです。

世界の始まりを語っても、それを支配や正統へと結びつけない。

その距離感が、長い時間を経てもなお、読む者に違和感と考える余地を残しています。

飛騨口伝を読むということは、何かを決めることではなく、決めすぎない態度に触れることなのかもしれません。

淡方様に関する語りは、答えを示すためではなく、私たち自身の「読む姿勢」を、そっと照らし返しているように思えます。

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飛騨
<参考資料>

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