神紋にも使われる「ひょうたん」。
例えば、飛騨一宮の 水無神社 です。
その「瓢箪」について考えようとしたとき、紋に使われるというからには、そこに何かしらの「意味」があるのだろうと、私は少し立ち止まってしまいました。
けれど、容器としても、縁起物としても知られているこの形は、説明しようとすると、どこか言葉からこぼれていきます。
上下に分かれ、くびれを持ち、中は空いている形です。
そのせいか、閉じているはずなのに、巡っているようにも見えるこの形を手がかりに、この記事では、ひょうたんと巡りの感覚、そして八や渦と重なる感覚を考えながら辿ってみたいと思います。
ひょうたんという「かたち」から考えてみる

ひょうたんについて調べようとすると、用途や由来、縁起の話がすぐに出てきます。
水を入れる器であったこと、保存に向いていたこと、福を呼ぶ形として親しまれてきたこと。
どれも間違いではありません。
けれど、それらを読めば読むほど、私の中では、少し別のところが引っかかっていました。
というのも、ひょうたんは「意味を与えられてきた形」というより、先に形があって、あとから意味が重ねられてきたように見えるからです。
上下に分かれ、真ん中にくびれがあり、中は空洞になっている。
単純なようでいて、どこか説明しづらい輪郭をしています。
完全な円でもなく、きれいに分割できる形でもない。
それでいて、上下が切り離されることもなく、ひとつの流れとしてつながっている。
容器であるはずなのに、「中に収めて終わり」という感じがしません。
溜める形でありながら、この形には行き来する感覚が残ります。
意味や象徴を語る前に、まずこの形そのものを、もう少し眺めてみたい。
そう思わされるところから、ひょうたんの話は始まる気がしています。
巡る・溜める・止めない──ひょうたんの感覚

ひょうたんは、器として見れば「溜める」ための形です。
水や種子を入れ、外から守る。
実用の面だけを見れば、そこで役目は終わるはずでした。
けれど、形を眺めていると、どうも「溜めて終わり」という印象になりません。
上下に分かれたふくらみと、その間をつなぐくびれ。
中は一続きで空いているのに、一度、流れが絞られ、また広がっていくように見えます。
閉じた器であるはずなのに、どこか行き来している感じが残る。
止まっているより、巡っているほうがしっくりくる。
ぽの
ひょうたんを見ていると、「入れる」「溜める」「守る」といった言葉よりも、「巡る」「往復する」「つながる」といった動きのある言葉が浮かびます。
完全に閉じてしまわないこと。
一度区切られながらも、切断されないこと。
その中途半端さが、この形をただの道具以上のものにしています。
ここでようやく、私は別のかたちを思い出しました。
円でも直線でもなく、行きつ戻りつしながら進んでいく、あの「八」や「渦」の感覚です。
八や渦と、どこか重なって見える

ひょうたんの形を見ていて、私の中で、ふと重なったものがありました。
それが、「八」や「渦」の感覚です。
数字の「8」は、数として見ればただの記号です。
けれど、横に倒したときの形(∞)や、行きつ戻りつしながら続いていく動きとして捉えると、どこか「巡り」を含んだ形にも見えてきます。
ひょうたんもまた、上下に分かれていながら、ひとつにつながっている。
途中で絞られ、また広がる。
止まらず、かといって一直線でもない。
その感じが、八や渦を見たときに覚える感覚と、どこか似ているように思えたのです。
以前、出雲の思想や配置について考えたとき、「真ん中を定めない」「中心を固定しない」という感覚に、強く引っかかったことがありました。
円のように閉じず、直線のように進み切らず、巡りながら続いていく構造です。
ひょうたんを見ていると、そのとき感じた違和感と、よく似た手触りが戻ってきます。
ここで大事なのは、ひょうたんが八であるとか、渦を表しているとか、そうした意味づけをしたいわけではありません。
ただ、別々の場所で出会ったはずの形や考え方が、同じような感覚を呼び起こすことがある。
その重なりに、少し立ち止まってしまった、というだけです。
ひょうたんを理解した、というよりも、ひょうたんを見る目が、少し変わった。
そんな感覚に近いのかもしれません。
瓢箪が置かれてきた土地と、その配置

ひょうたんは、特定の土地や氏族にだけ結びついた形ではありません。
それでも、注意して見ていくと、ある種の場所に、繰り返し姿を現しているように感じられます。
私が最初に「神紋としてのひょうたん」を意識したのは、飛騨一宮の 水無神社 でした。
神紋の中に、瓢箪の形が含まれている。
けれど、そこで語られているのは、「この瓢箪は何を意味するのか」という説明ではありません。
ただ、そこに置かれている。
配置として、黙って存在している。
その距離感が、ひょうたんという形のあり方と、よく似ているように思えました。
同じように、大阪府 の市章にも、瓢箪の形が使われています。
都市を象徴する紋章に選ばれながら、そこでも細かな意味づけが前面に出ているわけではありません。
むしろ、形そのものが、流れやつながりを受け止める器として、据えられているように見えます。
さらに、港町である 尼崎 という土地を思い返すと、ここでも私は、境界や行き来、内と外が交差する感覚を強く意識してきました。
直接ひょうたんが掲げられているわけではなくても、巡りや往復を前提とした土地の性質は、この形が持つ感覚と、どこか響き合っているように感じられます。
水無神社も、大阪も、尼崎も、ひとつの物語でまとめられる場所ではありません。
ぽの
けれど、流れが集まり、分かれ、また巡っていく地点であること。
その点では、似た配置に立っているとも言えそうです。
ひょうたんは、そうした場所に「意味を語る象徴」として置かれるのではなく、巡りを受け止める形として、静かに置かれてきたのかもしれません。
意味を固定しないかたち、という可能性

ここまで見てきても、ひょうたんが「何を表すのか」を、一つの意味に定めることはできません。
器の形だ、とも言えるし、巡りの形だ、とも言える。
土地や配置によって、その受け取られ方も変わってきます。
けれど、ひとつだけ、この文章を書きながら、
私の中ではっきりしたことがあります。
それは、八や渦に対して感じてきたあの感覚と、ひょうたんの形が、非常によく似ているということです。
意味が同じだと言いたいわけではありません。
象徴として一致していると断定するつもりもありません。
ただ、行きつ戻りつしながら続いていく感じ、途中で絞られ、また広がっていく流れ、中心を固定せずに巡っていく構造。
そうした感覚のレベルでは、八・渦・ひょうたんは、私の中では明確に重なりました。
だからこそ、ひょうたんは「意味を伝える象徴」というより、意味が集まり、通り抜け、また別の場所へと巡っていくための形として使われてきたのではないか、と感じています。
もちろん、この見方も一つの立ち位置にすぎません。
けれど、八や渦を前にして立ち止まったときと、ひょうたんという形を前にして足が止まったとき、その感覚が同じだったことだけは、今ははっきりと言える気がしています。
飛騨
<参考資料>
- 裏古事記日本人のルーツ飛騨
- 暴かれた古代史―二千年の涙:山本健造
- 日本起源の謎を解く―天照大神は卑弥呼ではない:山本健造

