神話をどう読むのか|設計としての物語と、生身の現実を分けて考える

神話を読んでいると、

いつの間にか「答えを求める読み方」に引き寄せられてしまうことがあります。

「結局、何が正しいのか」

…そんな問いに行き着いてしまうことがあります。

けれど、私が当ブログ「ponolog」で読んできたのは、神話が事実かどうかを決めることではありませんでした。

物語の中に、どんな役割や配置が組み込まれているのか。

何を避け、何を守ろうとした設計なのか。

この記事では、神話と現実を意識的に分けながら、

いま自分が「何を読もうとしているのか」を整理してみます。

神話は「答え」なのか、という違和感

神話を読んでいると、いつの間にか「答え探し」をしてしまうことがあります。

この神は何を意味するのか。

この物語は、結局なにを言いたいのか。

そして、それは本当にあった出来事なのか…。

私自身も、以前はそうやって読んでいました。

神話の中に、現実の出来事や歴史の答えが隠れているはずだ、と。

けれど読み進めるうちに、どうにも腑に落ちない感覚が残るようになりました。

神話の筋はきれいに整っているのに、現実の土地や伝承、人の感情は、どうもその通りには並んでいないように見えたからです。

「答え」として読むと、神話はとても整いすぎています。

争いは収まり、役割は分かれ、中心は曖昧なまま保たれる。

けれど現実の人間社会は、そんなにうまくいくものではありません。

そのズレこそが、私が神話を読むときに、最初に引っかかる違和感でした。

なぜ神話は、現実と混ざって読まれてきたのか

神話が現実と混ざって読まれてきた理由は、ひとつではないと思っています。

信仰の対象として語られてきたこと。

歴史の空白を埋める役割を担ってきたこと。

そして「物語」という形をしている以上、どうしても事実のように読めてしまうこと。

さらに言えば、神話は「誰かの生活の上に」置かれてきました。

神社が建ち、土地が語られ、系譜が結び直される。

そうした積み重ねの中で、神話は現実に根を下ろし、
いつの間にか「昔、本当にあった話」として扱われるようになっていきます。

けれど、神話が現実に影響を与えたからといって、神話そのものが現実をそのまま写しているとは限りません。

むしろ、混ざってしまったからこそ、「どこまでが設計で、どこからが生身の現実なのか」が見えにくくなった。

当ブログ「ponolog」では、まずその混線をほどくところから始めたいと考えています。

ponologが読んでいるのは「出来事」ではなく「配置」

当ブログ「ponolog」で、ここまで繰り返し読んできたのは、神話の中で「何が起きたか」ではなく、「どう配置されているか」です。

なぜ力が一箇所に集まりすぎないよう描かれているのか。

なぜ役割が分散され、重なり、時に曖昧にされているのか。

なぜ境界や常世、通過点のような存在が、これほど丁寧に置かれているのか。

たとえば、神が沈黙している場面。

あるいは、主役のはずの存在が前面に出てこない配置。

そうした部分に触れるたび、これは出来事の記録というより、「こうしておかないと壊れる」という設計図のように感じてきました。

誰が正しいかを決めるためではなく、誰かが排除されないための配置。

衝突が起きにくくなるための役割分担。

当ブログでは、神話をそうした「構造」として読む立場を取っています。

※記紀神話を「設計」として読んできた具体例については、こちらの記事で触れています。↓↓↓

記紀神話に残された矛盾を読む|設計として書かれたことと、書かれなかったこと

設計としての神話と、生身の現実は同じではない

ただし、ここで一つ大事にしていることがあります。

それは、神話の設計が、そのまま現実で実現していたとは考えない、ということです。

ぽの

「で。ぶっちゃけ、現実世界はどうだったの?」という視点は常に持ちたいと思っています。

たとえば出雲についても、

神話からは「中心をつくらない」「八を聖数とする」

…そんな思想を読み取ってきました。

真ん中を定めない出雲思想|八・渦・数に残る感覚

一方で、出雲口伝や家の系譜、実際に土地を歩いて見えてくるものを考えると、現実の出雲が、常にその通りだったとは言い切れない気もします。

王のような存在がいた可能性。

力の集中や対立が、実際には起きていた可能性。

さらに言えば、記紀や風土記が成立した後に、神話をもとに土地や歴史が「再配置」された部分もあったのではないか。

そう感じる場面もあります。

だからといって、神話が嘘だとか、口伝が間違いだとか言いたいわけではありません。

設計としての物語と、生身の現実は、そもそも役割が違う。

当ブログでは、その差を無理に埋めないことを大切にしたいと思っています。

それでも神話を読む理由

では、現実をそのまま写していないとするなら、なぜ神話を読むのでしょうか。

それは、神話が「これ以上壊れないための枠」として、長い時間、機能してきた可能性があるからです。

理想化された世界であっても、そこには人が衝突しないための知恵や、役割を押し付けすぎないための工夫が残っています。

ぽの

正直に言うと、
私は「衝突を避けるための神話の構造」そのものに、
とても強い興味を持っています。

当ブログでは、神話を現実の答えとして消費することはしません。

けれど、無意味な空想として切り捨てることもありません。

設計として読んだとき、そこにどんな配慮や怖れ、願いが込められているのか。

それを静かに拾っていくことに意味があると感じています。

この整理を挟んだ上で、次は、もっと地面に近い話…

古墳や須恵器、葬送や土地の現実へ進んでいきます。

ここから先は、神話の設計だけでは説明しきれない領域です。

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祭祀工程

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