越 の「礎 に滅ぼされた後のいろいろ」について。
「滅ぼされた」と聞くと、ついつい「きれいサッパリ消え去ってしまった」ようなイメージを持ってしまっていましたが、そうではなくその後も色々とあったのでした。
目次
越:礎に敗れた後
今回は、「礎に滅ぼされた後」 の「越」についてのお話です。
<越の最後>
BC334年:楚 の 威王 は、「攻め込んできた 越王 無彊 の軍勢」を破り、逆に 越 に攻め込んで 「越」を滅ぼした。
敗北した越の 無彊 は逃亡。その後、楚の 懐王 の代 の BC 306年頃 までに、楚の王族 淖滑 によって 越 は 滅ぼされた。
↑↑↑<越の最後>とは書きましたが、話はここでは終わりません。
ここから更に続いていきます。
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▼ 「呉・越・楚」の基礎情報はこちら ↓↓↓

越:礎に滅ぼされた後

「礎」に敗れた後の「越」
「越」は「楚」に滅ぼされた後も、その存在が消えたわけではありませんでした。
越という「国」では無くなったけれども、「地方自治体」のような形(?)で存在していたのです。
秦の時代は、「君長」とされていたとあります。(君長=村長とか県知事とか…そんな感じ?)
以下は、「越」の 楚 に滅ぼされてからの ザックリとした流れです。↓↓↓
そして、その後 「秦」を 滅ぼすメンバーの一人(一国)となります。
学生時代「三国志」とか「戦国時代」とか、めちゃくちゃ苦手(登場人物多いし、人間関係複雑で…)で全然知りませんでした…。
このことにより、越の立場(地位)は回復していきます。
…が、「越」も内紛など色々あって「東甌」と「閩越」に分かれて存在していました。
越:復活(東甌:トウオウ・閩越:ビンエツ)

「礎」に敗れた後の「越(東甌・閩越)」
越(東甌・閩越)は、漢の時代 になって復活しました。
東甌・閩越は、いずれも 呉 を滅ぼした 越王 勾践 の 後裔となります。
その後も色々あったようなのですが(誰と誰が戦ってどの国がどうなった…とか)、細かな流れ はひとまずおいて置くとして。
\ 気ななる方はこちら ↓↓↓ /
・漢の軍事遠征:閩越と東甌の征服(Wikipedia)
私が とても気になったのは「この時期に 越(東甌 と 閩越 )から 日本へ人々が移動 した可能性がある」話です。
東甌 と 閩越 と 漢 が色々あった中で、「東甌 と 閩越 」の人々が「長江・淮河間」 の内陸部へ移住させられたそうなのです。
そのタイミングで、(指示された長江・淮河間 の 内陸部ではなく)日本へ移住した人も多いのでは?…と、「古代史レポート:弥生の興亡、2:中国、朝鮮史から見える日本、2」には書かれていて。
「なるほど」…と、とても腑に落ちたのでした。
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あと、「発音」についての話です。
「越」の言葉の発音 について次にまとめたいと思います。
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\ 参考元のサイト /とてもすばらしい内容ですので是非ご一族を ↓↓↓
▼ 東甌・閩越 と ヤオ族について ↓↓↓

越の「呉音」と日本の関係
↑↑↑ 上記の記事を読んでいて、目から鱗だった(全然知らなかった)ことが「発音」の話でした。
上記サイトの記事を読んでいただくのが一番なのですが、(個人的な)ポイントを備忘録を兼ねてまとめさせていただきます。
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その前に…
発音の話で出てくる「漢音」と「呉音」についてですが、(無知な私は)「漢音」はともかく、「呉音」とは「越」の話なのに、これいかに?!…となったのですが。
「呉音」とは こういうこと。↓↓↓
なので、『7~8世紀に日本に伝わった長安付近の音韻である「漢音」以前に日本に伝わっていた漢字の音』は (どこの国の言葉であろうが)すべて「呉音」と呼ばれるようです。
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以下、「かな:漢音/カナ:呉音」です。
閩越(びんえつ・ミンヲチ)
- 閩越:びんえつ(オヱツ → ミンヲチ に変化)
- 閩(ミン)は ミ(巳=蛇)
- 三島、箕島、三好 など「ミ」の付く地名は、この「閩」に由来するのかも?
- ミヅ(水)のミ・カミ(神)のミ・尊称のミ(御)…でもあるよう
東冶(とうや・ツヤ)
【福岡県福津市】
- 東治:とうや( ツヤ)
- サイト主様は『倭人伝の「不弥国」は「津屋崎(福岡県福津市)周辺では?』と推定されていて、ここの地名が「閩越 の 東冶」からきている可能性があることを発見しておられる
- 面土国王帥升(=越王の騶升:騶=閩越王 の 姓)は、この「津屋崎」から「新宮町付近」までを支配していたとみられる
- → 国をつくる過程で隣の奴国との間に騒乱を引き起こしました
- → 後漢 に献じられた 生口(=奴隷)160人は、この戦いで得た捕虜と思われる
※面土国:倭面国や倭奴国、倭国といった古代日本の国々の名前の一つとして、古代中国の歴史書に登場する言葉
東成(とうせい・ツジャウ)
【大阪市東成区】
※1 東成(東城):東越の 繇王 が 封じられた場所(中国)の地名。
BC138年に アレコレ(漢の軍事遠征:閩越と東甌の征服)あってからも、さらに BC110年 にドタバタが ありました。↓↓↓
武帝時代 に 漢 は[閩越王]無諸の孫 の 騶丑 を 繇王 として立て、東越〔閩越〕国を継がそうとしたが、まもなく騶余善 が 東越王 を自称したため、王が並立する状態となった。
武帝 が南越を攻めるにおよび、余善 は 漢に協力するとみせかけて 南越と通じ、漢の圧迫を受けたためやがて 漢に反旗を翻した。
繇王 は他の仲間とともに 前110年、余善を殺して 漢 にくだった。
漢 は彼を他の地に侯として封じ、福建の地は地形的におさめにくいと判断して東越の民をすべて長江と淮河のあいだの地に移住させたため、東越の故地はしばらく空虚地と化したといわれる。
(引用:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢/山川出版社)
この時にも、住民は「長江と淮河のあいだの地」に移住させられた模様。
「BC138年のアレコレ」と「(上記)BC110年のドタバタ」時に住民は移動を強いられていて、これらのタイミングで 日本へ移動した人々 も少なくなかったのでは…? と言われています。
そして、異動した民は 移動先(日本)で 越 に縁がある名前を土地につけた 可能性が 見えます。
騶氏の越は騶越(スウエツ)
参考サイト
<参考サイト>
・古代史レポート:弥生の興亡、2:中国、朝鮮史から見える日本、2
越:礎に滅ぼされた後|まとめ
- 最も遅れて後漢代に渡来した 弥生人=越人
- 九州に一部を残して 出雲(?)へ向かった
- 倭国大乱時に、丹波・摂津 の二方面から 大和 へ侵攻した様子がうかがえる
- 後に、東海 へ抜けて 常陸 まで達しているのは確実(おそらくその先へも)
詳しくは一度こちらのサイトを読んでみてください。↓↓↓
以上、
「越:礎に滅ぼされた後」についてのブログ記事でした。