坂口安吾|飛騨・高山の抹殺 ④|山を越えて飛騨から穂高(信濃)へ

坂口安吾 の 新日本地理「飛騨・高山の抹殺」について。(その ④)

安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺 ④

「安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺」というお話は、「青空文庫」で、読むことが出来ます。

\ 全文はこちら /

おねがい:古代飛騨ついて
飛騨の口伝 をはじめとした「古代飛騨」の話は、えてして「飛騨の何かを隠したい相手」への 批判 を伴いがち です。

私としては(当事者ではないからこそ言える事ではありますが)何か や 誰か へ対する 批判 は 目的としていません。

その点を、ご理解の上、読んでいただけると有難いです。

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「白黒の文字」だけだと、情報が上手く入らない「ポンコツ脳」なので、自分の為にちょっと整理してみました。↓↓↓

山を越えて飛騨から穂高(信濃)へ

青空文庫編:安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺――中部の巻――坂口安吾

↑↑↑ 上記の内容に「改行」「空白」「…」「リンク」「補足」「画像」等 をプラスさせていただきました ↓↓↓

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赤:飛騨国・緑:東山道(引用:Wikipedia

※ 「斜体」が「坂口安吾」の文章です。↓↓↓

乗鞍 位山 の古い呼び名 があって(←古くは「乗鞍岳 が 位山と呼ばれていた」という意味)

現に 山神崇拝 のあとの巨石が多く見られ 乗鞍権現 もあるけれども、信濃側 の 信仰 からみると、この氏族がヒダから山越えした最初はむしろ 穂高 で。

穂高梓川 まで下ッた 現在の 穂高神社 の地がこの氏族の 信濃開拓 の交通要所重大な分岐点 をなしているらしい。

つまりこの氏族 の 発展根拠地点 でもある。

松本の平野へ、

またスワへ、

伊那 へ。

遺跡 から 判断 して 三ツ の古代人 の 発展方向の その重大な 分岐点、聖なる根拠点たる 穂高神社

<メモ>


又 その山上たる 穂高の峯信濃側の信仰 からは 一ノ山 と見られるのが 自然かも知れん。

そして 船津 へついた一行が登るとすれば、乗鞍 よりも 穂高 の方を選ぶのが自然かも知れないのである。

その 二ツの中間アワ峠 が一番古くひらけた道のようだ。

この氏族は 船津上陸 当初 は 谷沿い道よりも むしろ尾根づたいに歩いていたと見られる。

穂高中心 に 北 には 立山 へ、

南には乗鞍御岳

…と 彼らは 尾根づたい に往復して 立山御岳 から 低地へ降り、もしくは 中間の峠を降りた

御岳 を 尾根づたいに 南下 すると 三国山 と云って、ヒダシナノミノ三国の境、そのヒダ側竹原村 で、そこが 尾根 から低地へ降りる 南限の地点 と想像される。

<メモ>


今も スワ神社 の神事に スワ湖 の 氷上渡御 というのがあります。

…が、これは 穂高 から 御岳 への 尾根通行 を 湖水 に当てはめたもので、あの氷のワレ や モリ上りは 一方には中間の 乗鞍のクラにのるという意味と、氷がわれるということで 通過の雪どけを待つ意味の 通交の祈願 のような気がします。

竹原村 大字宮地 の 川合平 に 日本に珍しい 枝垂栗シダレグリ 自生地 がある。

この 栗の自生地 は他に シナノの某山 その他 二三しか見られない由である。

…が、この木のある所は 立山 から 尾根を通る神様の休憩地 だから、これに触れると神罰をうけて病気にかかる、と里人は怖れて伐ることがなかったから今日に残ったと里人に信ぜられている。

これは 尾根を往復する一行の 目ジルシ でもあり、或いは この木の実は 彼らが 故郷たる 異国から持参して 通過や居住の地ごとに植えつけてきたもの ではなかろうか。

※ ↑↑↑「斜体」が「坂口安吾」の文章です。

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関連場所の地図

参考サイト

安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺 ④|まとめ

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以上、

「安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺 ④」についてのブログ記事でした。

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