坂口安吾|飛騨・高山の抹殺 ⑨|身内のケンカと日本神話

坂口安吾 の 新日本地理「飛騨・高山の抹殺」について。(その ⑨)

安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺 ⑨

「安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺」というお話は、「青空文庫」で、読むことが出来ます。

\ 全文はこちら /

おねがい:古代飛騨ついて
飛騨の口伝 をはじめとした「古代飛騨」の話は、えてして「飛騨の何かを隠したい相手」への 批判 を伴いがち です。

私としては(当事者ではないからこそ言える事ではありますが)何か や 誰か へ対する 批判 は 目的としていません。

その点を、ご理解の上、読んでいただけると有難いです。

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「白黒の文字」だけだと、情報が上手く入らない「ポンコツ脳」なので、自分の為にちょっと整理してみました。↓↓↓

身内のケンカと日本神話

青空文庫編:安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺――中部の巻――坂口安吾

↑↑↑ 上記の内容に「改行」「空白」「…」「リンク」「補足」「画像」等 をプラスさせていただきました ↓↓↓

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赤:飛騨国・緑:東山道(引用:Wikipedia

※ 「斜体」が「坂口安吾」の文章です。↓↓↓

両面スクナ の伝説で 見のがせないのは 彼が 日本の首長たるべきである のに 敵にはかられて 殺された ということで、日本武尊 もそれに似ているし、五瀬命も もし 生あらば自分が兄であるから 日本平定後 即位 するのは 彼であったであろう。

スクナは 日本の 首長たるべき人 であったとも云う。

伝説だからハッキリしません。

そして皇位をつぐべきであったのに、帝に憎まれて追われた というのは、古事記の 日本武尊 の方がむしろハッキリそうであるが、この 日本武尊 の運命に 似た人々が 古代史に多く現れ、それはまた この地になんとなく ユカリありげに 暗示されている。

その 似た宿命というのは、日本武尊 とその分身の 大碓命 を合せたようなもの、つまり、恋人だの 皇后たる人の兄が 妹をそそのかして天皇を殺させて 自分が天皇になろうとする、そして 却って 殺される

その アベコベに 殺したのが 女帝自体 だというのもあり、仲哀天皇天ノワカヒコ は その例であるが、前者の方には 崇神帝の場合があり、その他いくらも似た例がある。

<メモ>

  • ↑「アベコベに殺したのが女帝自体」…ってどういう意味?

これも両面伝説の 主人公の悲劇性の 一ツとしてダブって重なり、合せて 一ツの真相 を暗示しているのかも 知れぬ。

家庭環境複雑すぎ…
(系図はほんの一部:実際はもっと複雑)

ところが、後世に至って 大友皇子天武天皇 の 例が起った。

大友皇子 天智 の子。

天武天智の弟 で 皇太子。

しかし、皇太子をゆずらないと 自分が殺されそう なので、いったん 大友皇子 にゆずって 吉野 へ隠れた

しかし 天智天皇の死後に 挙兵して 大友皇子 を殺し、自分が即位 した。

この 天武古事記書紀 のヘンサンを命じた 女帝 の 父たる人 である。

<メモ>
  • 記紀の編纂を命じた女帝っていうのは「43代 元明天皇=阿閇」のこと?
  • 「43代 元明天皇=阿閇」=「持統天皇の息子草壁皇子」の后?
  • 「父たる人」っていうのは「義父」っていう意味?
  • それとも全然別の話?

持統天皇以外の「女帝」とは?

だから、官撰の国史というものは当然、天智の死と その子たる 大友皇子殺害事件 が 偽装すべき 重大な秘密の一ツ であったことは申すまでもないし、そのゴマカシが 官撰国史の主要な任務でもあったろう。

だから 官撰国史の 天智大友皇子の話は 決してそのままに 信用はできない

ところが、なんとなく 大友皇子的 運命らしいものが、両面伝説の 立役者の 一ツの運命として 悲劇性 の 一ツとしてダブッており、これまた 各時代の各人物に 分散せしめられた オモムキが見られるのである。

天武天皇 大友皇子 を殺す前に、自分の方が の疑いや 憎しみをうけて、いったん 殺されそう になっている

結局、自分の方がやらないと、自分がやられそうな場合でもあって、やむを得ず 大友皇子 を殺して、皇位につくというのが 国史の語る筋である。

これが本当の話であるか、偽装がほどこされているか、それを正確に知る手段はもとよりないけれども、天武天皇の 皇后たりし女帝と云っても 持統帝 ではなくその 妹帝 である)の ヘンサンを命じた史書だから、万事話が 天武側に 有利につくられてるのは自然であろう。

<メモ>

  • ↑「天武天皇 皇后たりし女帝…と云っても 持統帝 ではなくその 妹帝」…ってどういう意味?
  • 持統帝 は 天武天皇 の 皇后だけど、妹「元明天皇(阿閇)」は持統天皇 の 息子の皇后だよね?(天武 の 皇后ではない)
  • 太田は 持統天皇 の 姉だし…
  • 持統 でも 太田 でも 元明 でも ない「天武の皇后かつ女帝な人」が いるの…?

「神武の皇后」かつ「持統の妹帝」とは?
(登場人物多すぎて書ききれない…)

いったん 古事記 をつくり、しかる後に 更に 書紀 のヘンサンを命じたのは、国史の偽装が 細部にわたるまで ツジツマよく施されておらぬ ウラミがあって不満があってのことに相違ない。

しかし女帝は 天智の娘 でもあるから、身内同志のケンカ で、特に 父側 を悪しざまに作るわけにもゆかなかったであろうから、この 偽装は微妙を極めていると思われる。

結局、天武大友皇子の悲劇は、両面神話 の主人公の悲劇と相似たものに作られた。

その原形が どちらか、あるいはどちらも 真実相似たものであったか、それをツマビラカには なし得ないけれども、

多くの 両面神話 が相レンラクして暗示するものには、天武 大友 の 悲劇をホーフツせしめるものが 含まれておるし、天智 大友 天武 の関係からは 両面神話 の主人公の 悲劇的な運命の 最も大きくて 本質的なものを ホーフツせしめてもいるのである。

これはむろん 微妙な 考慮が 施されてのことであったに相違ない。

いったん即位した 兄の子 を殺して 自分 が 天皇となった。

自分の妻 は 先帝の娘 で、殺した 太子 の でもある。

神話や 上代天皇史の多くが 父子兄弟相争う悲劇であり、その原因としては どの子供に 皇位を与えるか、

また、自分の にか、実子 にか、

またそこには 恋人であり 皇后でもある人の問題も含まれていて、

に味方するか、良人に味方するか。

肉親同志の 微妙な相続問題 や、愛憎問題が 主として 各天皇史 の多くの 悲劇の骨子 となっている。

神話や 上代史が そうなった理由の最大のものは、その 国史 をヘンサンした側が、直前に 肉親の愛憎カットウの果てに 兄の子を殺して皇位についているから で、

それを各時代の 神話や天皇史に 分散せしめて、どの時代でも それが主要な悲劇であり、悲しいながらも 美しいものに 仕立てる必要があってのことだ。

それが 記紀ヘンサンの主要な、そして差しせまった必要であったはずである。

赤の他人の天下をとるということは、それほど神経を使う必要のないことだ。

赤の他人同志なら勝った方が英雄で、それで通用するはずのものだ。

だから 日本の古代史だって、恐らく当時の レッキとした王様に 相違ないものが クマソ と かエミシ とか 土グモ とかと、

まるで怪物でも退治したように遠慮会釈なく 野蛮人扱い にされて、

アベコベに 退治した方の側は いつも 光りかがやく英雄 と 相成っているではないか。

むろん 統治の方便 として、それだけでは 済まないから、一応は 敵を 野蛮人 に扱っておいても、同時に その土豪の 子孫や 帰順者の首長を 国ツ神 に仕立てて 統治者の一族の如くにしてやることも必要であろう。

しかるに両面神話は、その最も主要な問題が肉親間の相続争いを各時代の悲劇として美化するだけのものではなくて、両面の一方には他人も含まれている。

即ち 肉親相続 の悲劇と 他人の天下を奪ったのとが 相重なり合い、それによって両面神話を複雑にもしているし、両面神話の形式がどうしても必要であった必然性も現れているのである。

それはなぜであろうか。

その「ナゼ」を 物的証拠で推理するのは どんな名探偵でも不可能で、特に私のような 素人歴史探偵には 困難であるが、しかし、それをいくらか推理する方法がないこともない。

それを推理する方法は、新しく 天下を平定した人 たちが 平定後に何をやったか、ということだ。

現存官撰史から判断して、新統治者の 第一祖は 天智天皇 であるが、しかし官撰史を 必要とした 当面の人々は 天武の一族 であるから、この 天武、及び その皇后で 次の天皇たりし 持統帝 及び その直系の帝らが 平定後に何をやったか

それを シサイに 見てゆけば 何かの手ガカリはある筈です。

ところが、たしかに 驚くべき 奇怪なことが 行われておるのであります。

天武天皇の十三年二月に 使 をつかわして 畿内 に遷都の地 をさがさせたが(この 使者 の主席は 広瀬王 です)同じ日、三野ミノ らを 信濃につかわして 地形をしらべさせた。

書紀の文はそれを評して、「マサニ コノ地二 ヲ ツクラムト 欲スカ」とありますよ。

信濃へ 遷都のツモリならんかと時の人は疑ったのでしょう。

三野王 は四月に戻ってきて 信濃 の図を奉ったが、翌年十月にも 使をだして 信濃行宮アングウ をつくらせた。

<メモ>
行宮アングウ:一時的 な 宮殿

これは 筑摩、今の 松本 あたりの 温泉へ行幸 のためならん、と 書紀は書いています。

ところが、信濃遷都行幸 も実行されなかった。

信濃 へ遷都 とか 行幸の問題 がなぜ起ったかというと、大化四年にも エミシ退治 のため 信濃 に要塞をかまえるようなことを やってるから、そういう必要があってのことでしょう。

天武天皇は「帝都 はいくつも必要である」と言明した記事が見えてます。

これだけなら、別に変でもないが、それから 3 3年後 に 妙テコリンの事が起った

※ ↑↑↑「斜体」が「坂口安吾」の文章です。

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関連場所の地図

参考サイト

安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺 ⑨|まとめ

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以上、

「安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺 ⑨」についてのブログ記事でした。

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