坂口安吾|飛騨・高山の抹殺 ⑩|敗者の大友皇子と蘇我赤兄

坂口安吾 の 新日本地理「飛騨・高山の抹殺」について。(その ⑩)

安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺 ⑩

「安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺」というお話は、「青空文庫」で、読むことが出来ます。

\ 全文はこちら /

おねがい:古代飛騨ついて
飛騨の口伝 をはじめとした「古代飛騨」の話は、えてして「飛騨の何かを隠したい相手」への 批判 を伴いがち です。

私としては(当事者ではないからこそ言える事ではありますが)何か や 誰か へ対する 批判 は 目的としていません。

その点を、ご理解の上、読んでいただけると有難いです。

前の記事:その ⑨
次の記事:その ⑪

「白黒の文字」だけだと、情報が上手く入らない「ポンコツ脳」なので、自分の為にちょっと整理してみました。↓↓↓

敗者の大友皇子と蘇我赤兄

青空文庫編:安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺――中部の巻――坂口安吾

↑↑↑ 上記の内容に「改行」「空白」「…」「リンク」「補足」「画像」等 をプラスさせていただきました ↓↓↓

前の記事:その ⑨

※ 「斜体」が「坂口安吾」の文章です。↓↓↓

元正天皇 が 美濃に 行宮をつくって行幸し、数日間 タギ郡 タド山美泉 というのをのんで帰って、

ちんミノの タド山 の 美泉 を連用して参ったが、顔と手はスベるようになる、痛みはとまる、白髪は黒くなる、夜も目が見えてくる、その他の何にでもきく。

まさに 老を養う 水の精 とはこれだ。

このフシギを 目のあたり見ては ジッとしてはおられん。

よって 養老 と 年号を変え、罪人の罪を許す

大そう変った ミコトノリ を発して 年号 を変えて大赦 を行いました

俗に云う「孝子と 養老の滝が 酒になった」という話はツクリゴトで、これが 養老改元 の発令された真相なのであります。

<メモ:養老年間の出来事>

信濃 美濃遷都 だとか 行幸 という目的は、実は その温泉が目当て のようだ。

ここに思いだされるのは、日本武尊 が 伊吹山 で気を失って死にかけたとき、清水 をのんだら、いったん目がさめた という。

それで サメ井の美泉とか称されて 天下に名高い美泉伝説がある。

大友皇子 の運命は 日本武尊 の悲劇 によく似ている。

どちらも天皇に殺されてるし、殺された場所が 伊吹山 を中にはさんで 東 と 西ミノ近江 に分れているだけだ。

おまけに 日本武尊の死体は 白鳥 となってなくなり、大友皇子 は首を敵に持って行かれてしまう。

さて、ここで 壬申の乱天武天皇大友皇子の戦争のところの文章を見ていただきたいのです。

天武天皇美濃に陣をかまえて 近江へ攻めこみますが、この文章の順だと、近江 に近い方から、不破野上ワサミ の順に陣をかまえた筈でなければならないが、ワサミ に大軍がおってこれを握ってる 高市皇子近江の方へは 全然動いた記事がありません

のみならず、近江方 羽田公矢国 という 大将 が 帰投すると、これを 味方の大将 に任命 して、コシ へ攻め入らせています。

<メモ>
・羽田公矢国=「八国」とも書く

近江に 敵がいるのに を攻めるとはワケが分りません。

まア、そのへんはどうでもいいのですが、伊勢伊賀尾張美濃 などの大軍がうごき、近江 の方も 九州東国 へ援軍を送るように 使者 をだしている

それによると、東の方 天武 の領分 で、西の方 の諸国は 近江方 の領分 のように思われますが、大友皇子 の命で 筑紫 へ援軍をもとめにゆく使者が アズミムラジです。

一番変テコなのは、すぐ お隣の国で、そしてどちらの陣にとっても 一番ちかい お隣りの ヒダに、どちらも援軍をもとめない。

それどころか、信濃 という言葉はでてきても、ヒダ という言葉は 完全に一度もでてきません。

これはどういうわけでしょうか。

すでに申上げたように、両面神話 はたいがい一応アベコベにひッくり返してあるものだ。

壬申の乱では 伊吹山 を中心に 敵味方が 西 と になってるが、筑紫 へ行く使者が 明かに 信濃 の生れたるアズミ氏 だから、これも恐らくアベコベになっているのだろう。

それも 伊吹山 が中心ではなくて、両方にとって 隣国 でありながら 全然タブーの如くに一度も名が現れない ヒダ という ひみつの国 が実は中心であって、ヒダ中心 西 が逆になっている。

こう見ると多くのことが大そう分り易くなって参ります。

それ以前の歴史で見ても、日本武尊 東征の順路 とか 群蠅の飛んだ順路 などで、ヒダシナノ上野常陸奥州  などが 皇威 に服さぬ 一連の エミシどもの住む土地 であることが分る

すると、実は 東国の方が 大友皇子の側だ ということが分るでしょう。

したがって、日本書紀 に現れる 戦争の地名 は、むろん 戦場がその土地ではない筈 だから全然デタラメな コシラエモノにきまってる。

しかし、両面神話 というものは、それが 各時代の いろいろの両面人 となって現れてるうち、そのどこかに 真実が 隠され 暗示 されているものだ。

すると、大友皇子 によく似ているのは 日本武尊 であるから、この戦争の陣立が アベコベになってるように、日本武尊 も 東征の往路と 復路の 二ツがあるから、その復路の方が、そして 日本武尊信濃坂 で道に迷い 伊吹山 で死ぬまでのところが 大友皇子 の場合を 現しているのかも 知れない。

一応は、こう見るのが自然かも知れません。

私は しかし そうではない と思うのです。

ぽの

ちゃうんかい!

なぜなら、日本武尊大友皇子 の話は 伊吹山を 境に アベコベ になっています。

ところが 壬申の乱の陣立は、必死に隠されているのが ヒダ ですから、この ヒダ を中心に アベコベ になっているらしい のです。

ところが ヒダマンナカ には ヒダ ミノ の国境に接するあたりに 重大きわまる 両面神話 がある のです。

実際、まったく マンナカ なのですよ。

神話自身が マンナカ だと云っているのですから。

つまり、豊葦原の中ツ国 という 天孫降臨 にからまる 両面神話 があったではありませんか。

日本の 中ツ国大国主 の住むところ だと云うから 大和 かと思うと、さにあらず、ミノ藍見川 のほとりだ。


【藍見川=長良川

<メモ>
藍見川=長良川


【三和町(三和村)】

そこは ヒダミノ に接するほぼ マンナカ でもあって、その近所には 三和ミワ もある。

八阪ヒメ の生れたところらしい 八阪 もある。

昔の ミノ のマンナカらしい ミノの町 もあるし、大和もあるし、伊瀬イセもあるし、富波フハ もある

<メモ>

この場合の 不破の関武儀郡 と境を接する 富波 であったに相違ありません。

この 富波 からヒダ へ向えば、天ノワカ彦喪山 をはじめ山また山がつづくことになるのです。

人麻呂不破山 をよんだ 歌の順路 はピッタリします。

天のワカ彦 が 天照大神あまてらすおおみかみ の返し矢で胸を射ぬかれて死んだのは 藍見川 の 左側 ですが、両面スクナ ヒダ伝説 によると、彼が ミノ へ出陣して 矢で負傷して 敗退した地点は ブギ郡下保(※) で、実に 藍見川 をはさんでちょうど なのです。

<メモ>

しかし 高市皇子天武軍先陣 をうけもっていたらしい ワサミ は、今 の ヒダ金山 のあたり、この 郡 は 当時 は ミノの国 に含まれていたようで、この 金山近辺ワサミ郷 と 昔は云っていたらしいようでもあります。

けれども、この同じ郡の 北端 ちかく、ヒダ へ最も近いあたり、小坂 だの 萩原 だのと重大な二つの町の マンナカへんの 上呂に、昔から有名な 浅水橋 という橋があるそうです


浅水橋(アサンズ橋)

この 浅水ワサミ かも知れませんな。

ここは昔のヒダミノ両国 交通の最大の要点 でしたろう。

さすれば、ここに 侵入軍 の 先鋒 があったのは当然でしょう。

しかし、そこで 大友皇子敗退の地 がどこであるか。

むろん 正しい真相が これに限るという如くに 分りッこありません。

この敗退ぶりを スクナの伝説で申すと、下保 で負傷して、いったん 宮村 へ逃げ、宮川 をはさんで戦って 今の 水無神社 のところで死んだということになっています。


水無神社

書紀 の 戦記は 近江 に当てはめてるから、ハッキリ分りませんが、大友皇子 は 二十日あまり 奮戦の後、粟津 で負けて逃げ場がなくなり 山前ヤマザキに身を隠してクビをくくって自殺したという。

このとき 皇子側 には 智尊チソン という大将が突如現れて 大奮戦していますが、橋のマンナカ 切り落して戦ったという

ヒダ に「中切」という地名が方々にあるのは、これと関係があるのでしょうかね。

皇子の自殺は 七月二十三日 でした。

多くの家来は みんな皇子をすてて 逃げ散りました。

皇子に 仕えている 重臣は みんな 天智帝 以来 の高位高官 で、蘇我赤兄あかえ中臣金蘇我果安巨勢人紀大人、この五人が 特別重臣

特に 最も 重臣たるのが 左大臣 蘇我赤兄 ですが、これと 同じ名 が 妙なところ に現れています

諏訪神社神氏系譜 というものに、神様から代々の系図 があって、武ミナカタの命 の 子孫 が スワの大祝 として今に相伝えて、当時は

乙穎(天智の人)――赤兄

となっており、天智のころの人の次の 赤兄 といえばまさに時代が合っています。

なお、蘇我 という地名は このあたりにはフンダンにあったのも事実です。

<メモ>

諏訪氏:大祝いとは?
大祝とは、諏訪明神 の依り代として 諏訪社の 頂点に位置した 役職で、上社大祝は 古代から 近世末に至るまで 世襲され「諏方氏」を名乗りました。

中世までは 諏訪の領主として 政治権力も握っていましたが、江戸時代に入り 藩主諏訪家と大祝諏方家ができ、完全な 政教分離がなされました。

明治維新を経て 神官の世襲制度が廃止されるに伴い 大祝職も廃止されました。

生き神様を祀る信仰が存在しつづけた神社は 全国でも珍しいといわれています。

(引用:諏訪氏系図 正編

<メモ>

「果安(ハタヤス)」

【疑問】
  • 蘇我赤兄 の 兄弟に「蘇我果安」がいる
  • 出雲国造出雲果安 とは関係者?→ 年代的には本人ではなさそう?(親子?)
  • ※「名前が一緒」というだけの話なので、無関係の場合もあるかと…
蘇我果安※引用:Wikipedia
出雲果安※引用:出雲と蘇我王国 & Wikipedia

※ ↑↑↑「斜体」が「坂口安吾」の文章です。

次の記事:その ⑪

関連場所の地図

参考サイト

安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺 ⑩|まとめ

前の記事:その ⑨
次の記事:その ⑪

以上、

「安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺 ⑩」についてのブログ記事でした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です