坂口安吾|飛騨・高山の抹殺 ⑬|敗者の大友皇子と蘇我赤兄

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坂口安吾 の 新日本地理「飛騨・高山の抹殺」について。(その ⑬)

安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺 ⑬

「安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺」というお話は、「青空文庫」で、読むことが出来ます。

\ 全文はこちら /

おねがい:古代飛騨ついて
坂口安吾の「飛騨に関する文章」や 飛騨の伝承 は、えてして「何かを隠したい相手」への 批判 を伴いがち です。

が、私がこれらを記事にする目的は「誰かや何かへ対する批判」ではありません。

複数の立場から書かれた異なる伝承(「記紀」含む)の内容から「そうした言葉が残された背景を知りたい」という思いがメインです。

その点を、ご理解の上、読んでいただけると有難いです。

(堅苦しくなりましたが、要は「和やかにいこうね」っておねがいです)

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「白黒の文字」だけだと、情報が上手く入らない「ポンコツ脳」なので、自分の為にちょっと整理してみました。↓↓↓

敗者の大友皇子と蘇我赤兄

青空文庫編:安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺――中部の巻――坂口安吾

↑↑↑ 上記の内容に「改行」「空白」「…」「リンク」「補足」「画像」等 をプラスさせていただきました ↓↓↓

前の記事:その ⑫

※ 「斜体」が「坂口安吾」の文章です。↓↓↓

実際、まったく マンナカ なのですよ。

神話自身が マンナカ だと云っているのですから。

つまり、豊葦原の中ツ国 という 天孫降臨 にからまる 両面神話 があったではありませんか。

日本の 中ツ国大国主 の住むところ だと云うから 大和 かと思うと、さにあらず、ミノ藍見川 のほとりだ。


【藍見川=長良川

<メモ>
藍見川=長良川


そこは ヒダミノ に接するほぼ マンナカ でもあって、その近所には 三和ミワ もある。

八阪ヒメ の生れたところらしい 八阪 もある。

昔の ミノ のマンナカらしい ミノの町 もあるし、大和もあるし、伊瀬イセもあるし、富波フハ もある

<メモ>

この場合の 不破の関武儀郡 と境を接する 富波 であったに相違ありません。

この 富波 からヒダ へ向えば、天ノワカ彦喪山 をはじめ山また山がつづくことになるのです。

人麻呂不破山 をよんだ 歌の順路 はピッタリします。

<メモ>


天のワカ彦 が 天照大神あまてらすおおみかみ の返し矢で胸を射ぬかれて死んだのは 藍見川 の 左側 ですが、両面スクナ ヒダ伝説 によると、彼が ミノ へ出陣して 矢で負傷して 敗退した地点は ブギ郡下保(※) で、実に 藍見川 をはさんでちょうど なのです。

<メモ>


しかし 高市皇子天武軍先陣 をうけもっていたらしい ワサミ は、今 の ヒダ金山 のあたり、この 郡 は 当時 は ミノの国 に含まれていたようで、この 金山近辺ワサミ郷 と 昔は云っていたらしいようでもあります。

けれども、この同じ郡の 北端 ちかく、ヒダ へ最も近いあたり、小坂 だの 萩原 だのと重大な二つの町の マンナカへんの 上呂に、昔から有名な 浅水橋 という橋があるそうです


浅水橋(アサンズ橋)

この 浅水ワサミ かも知れませんな。

ここは昔のヒダミノ両国 交通の最大の要点 でしたろう。

さすれば、ここに 侵入軍 の 先鋒 があったのは当然でしょう。

しかし、そこで 大友皇子敗退の地 がどこであるか。

むろん 正しい真相が これに限るという如くに 分りッこありません。

この敗退ぶりを スクナの伝説で申すと、下保 で負傷して、いったん 宮村 へ逃げ、宮川 をはさんで戦って 今の 水無神社 のところで死んだということになっています。


水無神社】(スクナが亡くなった場所)


書紀 の 戦記は 近江 に当てはめてるから、ハッキリ分りませんが、大友皇子 は 二十日あまり 奮戦の後、粟津 で負けて逃げ場がなくなり 山前ヤマザキに身を隠してクビをくくって自殺したという。

このとき 皇子側 には 智尊チソン という大将が突如現れて 大奮戦していますが、橋のマンナカ 切り落して戦ったという

ヒダ に「中切」という地名が方々にあるのは、これと関係があるのでしょうかね。

皇子の自殺は 七月二十三日 でした。

多くの家来は みんな皇子をすてて 逃げ散りました。

皇子に 仕えている 重臣は みんな 天智帝 以来 の高位高官 で、蘇我赤兄あかえ中臣金蘇我果安巨勢人紀大人、この五人が 特別重臣

特に 最も 重臣たるのが 左大臣 蘇我赤兄 ですが、これと 同じ名 が 妙なところ に現れています

諏訪神社神氏系譜 というものに、神様から代々の系図 があって、武ミナカタの命 の 子孫 が スワの大祝 として今に相伝えて、当時は

乙穎(天智の人)――赤兄

となっており、天智のころの人の次の 赤兄 といえばまさに時代が合っています。

なお、蘇我 という地名は このあたりにはフンダンにあったのも事実です。

<メモ>

諏訪氏:大祝いとは?
大祝とは、諏訪明神 の依り代として 諏訪社の 頂点に位置した 役職で、上社大祝は 古代から 近世末に至るまで 世襲され「諏方氏」を名乗りました。

中世までは 諏訪の領主として 政治権力も握っていましたが、江戸時代に入り 藩主諏訪家と大祝諏方家ができ、完全な 政教分離がなされました。

明治維新を経て 神官の世襲制度が廃止されるに伴い 大祝職も廃止されました。

生き神様を祀る信仰が存在しつづけた神社は 全国でも珍しいといわれています。

(引用:諏訪氏系図 正編


「果安(ハタヤス)」

【疑問】
  • 蘇我赤兄 の 兄弟に「蘇我果安」がいる
  • 出雲国造出雲果安 とは関係者?→ 年代的には本人ではなさそう?(親子?)
  • ※「名前が一緒」というだけの話なので、無関係の場合もあるかと…
蘇我果安※引用:Wikipedia
出雲果安※引用:出雲と蘇我王国 & Wikipedia


【追記】
「果安」って「蘇我」と「出雲」に二人いた!とか思ってたら、「果安」他にもいっぱい(?)いた!

…「果安」とは何のキーワードだ?

はたやす…ハタヤス…秦安…?!「秦氏」関係なのか…?


※ ↑↑↑「斜体」が「坂口安吾」の文章です。

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関連場所の地図

参考サイト

安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺 ⑬|まとめ

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以上、

「安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺 ⑬」についてのブログ記事でした。

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