坂口安吾|飛騨・高山の抹殺 ⑮|大津皇子と美濃トキミチツクリ

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坂口安吾 の 新日本地理「飛騨・高山の抹殺」について。(その ⑮)

安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺 ⑮

「安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺」というお話は、「青空文庫」で、読むことが出来ます。

\ 全文はこちら /

おねがい:古代飛騨ついて
坂口安吾の「飛騨に関する文章」や 飛騨の伝承 は、えてして「何かを隠したい相手」への 批判 を伴いがち です。

が、私がこれらを記事にする目的は「誰かや何かへ対する批判」ではありません。

複数の立場から書かれた異なる伝承(「記紀」含む)の内容から「そうした言葉が残された背景を知りたい」という思いがメインです。

その点を、ご理解の上、読んでいただけると有難いです。

(堅苦しくなりましたが、要は「和やかにいこうね」っておねがいです)

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「白黒の文字」だけだと、情報が上手く入らない「ポンコツ脳」なので、自分の為にちょっと整理してみました。↓↓↓

大津皇子と美濃トキミチツクリ

青空文庫編:安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺――中部の巻――坂口安吾

↑↑↑ 上記の内容に「改行」「空白」「…」「リンク」「補足」「画像」等 をプラスさせていただきました ↓↓↓

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※ 「斜体」が「坂口安吾」の文章です。↓↓↓


飛驒一宮水無神社

さて、この現在の 一の宮、水無神社 とは何をお祭りしているか。

これが 昔から 大そう ヤッカイな神様 で、信濃水内ミノチの神 と同じものだろうという説が多い。

<メモ>

水無ミナシ水内ミノチ だと云う。

日本武尊 の 伝説では 屍体は白鳥となって 墓から飛び去った と云いますが、大友皇子 も 首を持ち去られてしまった。

その他、忍熊王五瀬命天ノワカヒコ …等、いずれも 屍体が 一時は見つからなかったり 喪屋を斬りふせ 蹴とばされたりする始末で、

死体が なかったり 墓域が荒らされたりするのが この型の 神の宿命 であるらしいから、水無ミナシ身無ミナシ で、その墓に 屍体がない という意にも 解せられないことはない。

昔の神社は その社殿の後に たいがい 古墳 があるものだ。

水無神社 のうしろには 古墳 がない

しかし 五六丁 離れて存在する オミコシの 旅所古墳 だろうという説もある

ぽの

あるんかい?!イヤどっちやねん?!

ここは 神楽丘 とよばれております。


御旅神社

<メモ:御旅山>

御座山 ともいわれ、神体山位山 の遙拝所 とされ、古墳状の人工丘をなしている丘陵です。

春はつつじが咲き乱れ、四季松籟の緑陰に囲まれる宮盆地を一望にできる展望台でもあります。

5月2日の例祭には当神社の御旅所として神興の御神幸があり、伝承芸能の神代踊り、闘鶏楽、獅子舞の奉納が行われ、御旅所での神事のあとに御神酒のどぶろくが参拝者に振る舞われます。

(引用:飛騨一宮 水無神社 公式サイト

こう考えると、両面スクナの分身 の 片面は 天皇たるべき人 であったに相違ないように思われる。

そして、それが 天武天皇 によって亡ぼされた こともほぼ確実でしょう。

なぜなら、天武帝 は ヒダの主たる神を大和へうつして一年に何回も勅使をさしむけて拝ませており、しかもその神が 風の神大忌みの神 だから、タタリを怖れての策であるのは一目リョウゼンであります。

ところが、官撰国史は この二柱の神が ヒダの神 だということを決して書かない のです。

元来 大和に祭られた神であると人々に信ぜしめようとしている。

これは 壬申の乱ヒダ で行われたにも拘らず、ヒダということが完全に隠されている、ということを裏づけるものだろうと思われます。

そして ホンモノの ヒダの神様 にはなかなか位をやらなくて 貞観九年に はじめて従五位下じゅごいのげをやり、延喜式神名帳では、ヒダは全部で たった八ツの神 で、それも全部小ですよ。

大社というのが一ツもない。

<メモ:八つの神社>

実に冷遇虐待せられておって、そのくせ 別の神様として 大和に祭られた方は 大も大、大そうな扱いで 伊勢の外宮の分身 となっておるのであります。

こうして、天智弘文大友皇子 のこと)、天武 と日本史上に於て はじめてホンモノの 人皇が定まった らしい 重大きわまる時期に、ヒダの国 だけは 一度も 史上に名が出たことがなかった のです。

隣国で 皇位相続の 大戦争があって 一度も名がでてこない のですよ。

ようやく 持統天皇の 朱鳥元年になって名が現れた。

それは どんなことでかというと、天武帝 が死ぬと 大津皇子 がムホンをたくらんで死刑になった

その一味の 曲者であるというので、行心 という 新羅の坊主ヒダへ流された のです。

大津皇子は 殺されましたが、その味方した曲者は 二人残して全部ゆるされた。

その二人の一人が 行心 で 他の一人が トキの道ツクリ

<メモ>
礪杵道作トキノミチツクリ
行心

・キーワード:礪杵トキ土岐トキ・日子坐王(土岐氏の祖)・桔梗紋

歴史勉強メモ:岐阜の覇者は日子坐王!
福知山市ホームページ:日子坐王(ひこいますのきみ)の伝説(PDF)

これは 伊豆へ 流されています。

こんなバカバカしい裁判が あるでしょうか。

これは 苦心サンタンの 計略だろうと私は思う。

天武帝が 必死の如くに ヒダの神 を祭っておがんでいるので分りますが、ヒダのタタリ やその反撃が何より怖しい 大和朝廷 だったのでしょう。


そこで、天武の死を機会に、自分の 最愛の皇子 の一人ヒダの 皇子か天皇か の運命と 同じもの にさせた。

<疑問>

ぽの

自分の最愛の息子」ってどういうこと???

ん…?は…?え…?「持統天皇」ではなくて「太田皇女」のこと?

実は、死んでなかったって話?

もしくは、「持統天皇」と「太田皇女」がアベコベ(?)だってこと?

わからん~~~~?!

ムホンを起したことにさせた のです。

そして、殺してしまった。

しかし 全然ムホンは 実在しないから、無実の一味の者を 本当に殺すわけにゆかない。

新しいタタリも怖しかったでしょう。

それでも、悲しい辞世 をのこして 泣く泣く死んだ皇子を ジッと見送ったのは、ヒダに対してよほどのことがあるからだ。

皇子の辞世に「百伝モモツタうイワレの池に泣く鴨を云々」とありますが、それは 百代万代ヒャクダイマンダイ 伝わるべき 我が家のギセイとなって、という意味ではないでしょうか。

そして、他に たった二人の 一味の曲者だけ流刑になった のも計略で、こうして 愛する皇子を ムホン者に仕立てて殺して、その一類を流刑にする。

ヒダ 伊豆 に対して。

そういう カラクリをめぐらしてまで、まるめこむ必要があったように思うのです。

行心 という名の方は普通ですが、伊豆へ流された「トキの道作ミチツク」という氏名は、彼の秘密の役割 をチャンと語っている ではありませんか。

<メモ>

箕作八幡の社】←バス停「戸崎」のすぐそこ

※ ↑↑↑「斜体」が「坂口安吾」の文章です。

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関連場所の地図

参考サイト

安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺 ⑮|まとめ

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以上、

「安吾の新日本地理:飛騨・高山の抹殺 ⑮」についてのブログ記事でした。

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