ひょうたんは、巡る器|水無神社の六つの瓢箪と、空けられた中心を読む

水無神社の紋を初めて目にした時、私はそれを「特別な記号」として意識していませんでした。

六つの瓢箪ヒョウタンが並んでいるとも思わず、ただ一輪の花のように、自然な形として受け取っていたからです。

けれど、それが「ひょうたん」であり、しかも六つ重ねられていると知った瞬間、静かな違和感が生まれました。

なぜ花ではなく、瓢箪なのか。なぜ一つではなく、六つなのか。

この記事では、水無神社の紋をそう見てしまった感覚から、瓢箪という形と数が何を語ろうとしているのかを読んでいきます。

水無神社の紋を見て、最初に「花」に見えたこと

水無神社の瓢箪紋

水無神社の紋を見たとき、私はそれを「六つの瓢箪」だとは思いませんでした。

飛騨一ノ宮水無神社(公式サイト)

意識に浮かんだのは、整った一輪の花のような形です。

中心から放射状に広がる曲線と、全体のまとまりがそう見せたのかもしれません。

少なくとも、個々の形を数えたり、意味を探したりする前に、ひとつの造形として自然に受け取っていました。

だからこそ、後になって「これは瓢箪で、しかも六つ並んでいる」と知ったとき、その情報が少し遅れてやってきたような感覚が残りました。

最初に見えた「花」と、後から与えられた「瓢箪」という言葉。

そのズレこそが、この紋を読みたいと思った出発点でした。

「ひょうたん」だと知った瞬間に生まれた違和感

ひとつの花のように見えていた形が、実は 瓢箪の集合体 だと知ると、印象は大きく変わります。

瓢箪は自然物でありながら、器として使われ、人の手によって意味を与えられてきた存在です。

それが六つ集まって、なおかつ装飾的に整えられている。

偶然そうなった形とは考えにくく、何らかの意図があったのではないか、と感じました。

同時に、「なぜひょうたんだったのか」「なぜ六つなのか」という問いが立ち上がります。

花ならば、象徴として分かりやすい。

けれど、あえて瓢箪を選び、それを数で構成する理由は何だったのか。

この違和感は、意味を知りたいというより、選ばれ方そのものを見たいという感覚に近いものでした。

六つの瓢箪と、中心に置かれた小さな丸

六つの瓢箪は、単に並べられているというより、中心を囲むように配置されています。

そして、その中心には、瓢箪とは異なる小さな が置かれています。

最初は目に入らなくても、一度意識すると、この中心の存在は無視できません。

主張は強くないのに、構造としては要の位置にあるからです。

瓢箪が 巡り や 広がり を担う形だとすれば、この丸は、その巡りが成立するための、静かな支点 のようにも見えてきます。

この紋の中心にある小さな丸は、説明しようとすると言葉が足りなくなります。

神を表すには抽象的すぎ、装飾としては位置が良すぎる。

それは、意味を背負う存在というより、全体を成立させるための「置かれた点」に近いように見えます。

名前を与えないことで中心であり続ける。

この扱い方自体が、水無神社の紋の特徴なのだと感じています。

豊臣秀吉の千成瓢箪が示した「分かりやすさ」

瓢箪と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、豊臣秀吉の 千成瓢箪センナリヒョウタン かもしれません。

戦場で掲げられた瓢箪は、数が増えること自体が力の象徴でした。

勝利と拡大を視覚的に示す、きわめて分かりやすい使われ方です。

その影響もあってか、現在の 大阪府の府章 にも、千成瓢箪が用いられています。

大阪府の府章
千成瓢箪

ここでは瓢箪は、豊かさや発展を示す、前向きで明確なシンボルとして機能しています。

一方で、瓢箪が持つ意味は、それだけに収まるものではありません。

中を空にし、満ちては流れ、また空になる。

瓢箪はもともと、循環移ろいを受け止める器でもありました。

秀吉の千成瓢箪が「増えていく象徴」だったとすれば、

水無神社の紋にある瓢箪は、増やすことよりも、巡らせることに重心が置かれているように見えます。

同じ形が、置かれる場によって、まったく異なる役割を与えられている。

その違い自体が、瓢箪という形の幅を物語っているように思えます。

出雲の「八」と、数が意味を閉じない配置

出雲では「」が特別な数として扱われてきました。

けれどそれは、きっちりと数を確定させるためというより、「多い」「巡る」「尽きない」といった感覚を含んだ数です。

水無神社の瓢箪紋にある六という数も、完成を示すというより、中心との関係で意味を持っているように感じられます。

六つがあって初めて、中心が中心として立ち上がる配置。

数が主張するのではなく、数によって関係が生まれている。

この構造は、出雲の数の扱いとどこか似ています。

中心を一つに定めながらも、そこに意味を押し込めない。

水無神社の紋は、そんな「語りすぎない配置」を今に残しているのかもしれません。

水無神社の瓢箪紋は、何かを強く主張するための印には見えません。

最初は花のように受け取ってしまい、あとから瓢箪だと知って立ち止まる。

その順序自体が、この紋の読み方を示しているようにも感じます。

六つの瓢箪と、中心に置かれた小さな丸。

どちらが主役かを決めきれない配置は、意味を固定せず、見る側の感覚をそのまま残します。

この紋が今も掲げられている理由は、答えを示すためではなく、問いを手放さないためなのかもしれません。

瓢箪という形が、なぜ「巡り」や「循環」と結びついてきたのかについては、別の記事であらためて整理しています。

- - - - - - - -
<参考資料> #飛騨

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です