出雲の神話や 土地の話を読んでいると、どこか落ち着かない感覚を覚えることがあります。
主役がはっきりせず、物語の 中心が一つに定まらない のです。。
ぽの
出雲では、その「中心」が、最初から空けられている ように見えます。
この記事では、この「真ん中が定まらない感じ」を手がかりに、出雲に残る「八」や「渦」、「数の感覚」を、ひとつずつ読んでみたいと思います。
目次
出雲には「中心が定まりにくい」感覚がある
出雲神話では、判断や役割が一人に集中しにくい構造が、繰り返し現れます。
出雲に感じる、「主役がはっきりせず、物語の 中心が一つに定まらない」感覚。
大国主と事代主の関係も、その一例です。
- 出雲の 中心人物は誰なのか?スサノオ?大国主?事代主?
▶ そもそも出雲は 主王 と 副王 の二王制的な構造 であり、絶対的な立場の王は 存在はしない
ぽの
- スサノオ は クシナダヒメ を助けた後どうしたの?
▶ 出雲の英雄になるでもなくひっそり暮らしていた模様
- 大国主 の幸魂・奇魂=大物主…って何者?
▶ 何者なのか?どこから来て、なぜ三輪山に祀らせたのか?不明のまま
- 大国主は何故「国譲りの判断」を 息子である 事代主に委ねた?
▶ その事代主も、何故あっさり国を譲る判断をした?のか謎のまま
…などなど。
ひとつのエピソードで「主役か?」…と思った人も その後、継続的に 前に出てくる事は皆無で。
その「ひとつのエピソード」も 全て、「ひとつのわかりやすい結論」に 収束はしていない。
「なんやこれ?」…と、めちゃくちゃ気持ち悪い感覚が 残るわけなのですが。
ある時、ふっと(やっと)感じました。
この「その意味」や「理由」そして「結末」を ハッキリとは 書かないこと…
この「書かない事で生まれる」余白(沈黙)…
そこを「読む」と、見える 何か?… が、あることに。
円ではなく渦|中心を決めない形
日本には、「円」ではなく「渦」を好む文化があります。
渦は、中心を固定せず動きを持ちます。
日本全体にも見られるこの「渦」の感覚が、特に強い密度で現れている場所が、出雲ではないかと感じています。
▼ 渦巻き巴

▼ 巴紋

「始まり」も「終わり」も、中心が一箇所に固定されない渦。
ぽの
「閉じない円」 → 「渦」

・中心が 固定されず 動き続ける
・境界が 明確ではなく、あいまいで流動的
円 が「固定された中心」「境界が明確で閉じている」「完成した秩序」を表すのとは異なり、
渦 は「壊れずに動き続ける秩序」を表します。
「中心点が一つに定まる」円 とは異なり、「中心はあるが、固定はされない」のが 渦。
出雲に対して抱く「中心が定まりにくい」感覚は、まさにこの「渦」の 構造(思想?)そのものだと感じるのです。
出雲には 古代から「龍蛇信仰」が かなり強い形で 存在しています。

蛇 のトグロはまさに「渦」
蛇は、とぐろを巻いても「きっちり閉じた円」として固定されない。
直線を持たない、
輪を閉じない、
ねじれ、巻き、戻る。
出雲に感じる、「中心を決めない形=円ではなく渦」は
少なくとも出雲においては、この「中心を定めない形」が、龍蛇信仰と深く結びついているように見えます。
出雲の聖数「八」= 閉じない数
(画像引用:「神魂神社」拝受の絵葉書:八雲)
出雲の聖数は「八」。
<出雲に見る八>
・八雲
・八重垣
・須賀之八耳
・八島士奴美
・八千矛
・八束水臣津野命
…などなど
出雲には「八」がたくさん登場します。
「八」は「8つのもの」を表すのではなく、「数え切れなくなった」状態を表す数字。
ここらへんは、我々日本人に 馴染みある考え方ではあると思います。
<八>
・全方向(例:四方八方)
・多い数(例:八百万・八百屋)
・重なり・広がり(例:八重垣)
出雲においては、これらに加えて「渦」と同じ思想を「八」という数字(文字)に 感じています。
<渦>
・境界があいまい
・開いている
・固定されない
上記、「渦」の特徴は、「八」にも当てはまります。
「八」は「8つ」ではなく、たくさんの「数 や 状態」 を表す言葉。
「八」は “具体的な個数” ではなく、“多さ・広がり” という状態を指す。
だから、数として固定されません。

「渦」と「八」が持つ 共通点 からさらに読めること。
それは、「八」は 固定されない数である故「中心を持たない」ということであり、
「八」は、世界を固定しないために使われた言葉だったのではないか。
出雲神話の 語り方そのものが「一人の王が中心に立つ構造」を取りにくい。
出雲神話の語りの中で、「八」が聖数として扱われている意味は、ここ(=中心を定めない)にあるように思われます。
八雲が「8」と「9」と「7」で揺れるという話
出雲の聖数は「八」であり、出雲と言えば「八雲」ですね。
<八雲の絵>
・「出雲大社」では 雲が 7つ
・「神魂神社」では 雲が 9つ
かつては、上記について「なぜ 八雲なのに【8つ】ではないのか?」と疑問に思っておりました。
しかし、出雲においての「八」という数字の意味を見つめた時、その謎が 納得に置き変わりました。
「八」は「8つ」という意味ではありません。
「八」は「渦」と同じで「中心を定めない」もの。
出雲においての「八」を知ると、八雲を「8つの雲で描かない」意味が 自然と浮かんでくると思います。
「八」を「8つ」の数として描いてしまったら「八」の 意味が壊れてしまうのです。
「8つ(数)」に固定された「八雲」は「八つの雲」でしかなく、本来の「八雲」の意味を そこに見出すことは難しくなってしまいます。
故に、本来の「八」の意味を壊さない為にも、「8つの雲」で描かなかったのでしょう。
ではなぜ、「神魂神社」では「9」、「出雲大社」では「7」という異なる数字が選ばれたのでしょうか?
もしここで「同じ数に揃える」ことが思想の固定につながるのだとしたら、なぜ出雲は、7と9という “意味の濃い数” をあえて選んだのでしょうか?
「7」「9」という数字にも、それぞれ明確な意味があるように読めるのです。
神魂神社:八雲の絵 は「雲 9つ」
(画像引用:「神魂神社」拝受の絵葉書:八雲)
「神魂神社」に描かれた 八雲の絵 の「雲 9つ」
「八」は 中央を定めない数。
それでは、「九」は どのような数字なのでしょうか。
これがちょっと難しいのですが…
先に「七」や「十」について理解すると、出雲においての「九」が 少し読めてきます。
- 「七」は 秩序的な区切り:固定
- 「八」は 広がり(動き・回転・増殖):固定しない
- 「九」は …?
- 「十」は 決められた完成:固定
「八 = 固定されない広がりを表す数」と「十 = 完成」の 間の数が「九」。
「八 と 九の間」は どう読めるか?
まず、出雲を意識しないで考えると、中心を定めない「八」に「プラス 1」をした「九」は、中心が置かれた数…とも読めるかもしれません。
ただ、出雲においてその解釈は 違和感しかありません。
(「中心を置く選択をしない」ことを選び続けているのが「出雲」なので)
九 は 十 の手前。
「固定された完成形」の ひとつ前の数。
「九」は「八(多い数)」の要素を持ちつつ、中心が固定されない「八」を 壊す=固定する ことの無い数。
「神魂神社」には古い歴史があります。
「出雲大社」よりももっともっと古い 出雲の 歴史を持つ場所です。
「九」は 完成(十)には近いけれども、まだ 固定はされていない数=「八」を壊さない数。
故に「八雲」を表現するには、適切な数だったのではないでしょうか。
出雲大社:八雲の絵 は「雲 7つ」
それでは「出雲大社」はどうでしょう。
「出雲大社」に描かれた 八雲の絵 の「雲 7つ」
「出雲大社」は 出雲が 物部に占領された後に出来た神社ということで、物部の 聖数である「七」に置き換えられた…という説もみかけます。(七つの八雲=物部の悪意)
ただ、出雲から「真ん中を定めない」という思想(生存戦略)を 読み取った時、そうとは限らないとも思えるのです。
(ここでは、この説=物部の悪意 を否定するというより、「それ以外の読みが成り立つ余地」を示しておきたいと思います)
「八雲は 8つの雲で 描くと その意味が壊れてしまう」という話は先に書いた通りです。
結果、神魂神社では「9つの雲」で描かれています。
その後に出来た出雲大社は、八雲を描く場合は「8つ」を避けた上で「9つ」は 選択できなかったのではないでしょうか。
つまり「(9つの雲は)描けない」というより、「同じ数を選ぶことが “意味の固定” に見えてしまう」ため、選びにくかったのかもしれません。
「九」は「神魂神社」で既に使われている数なので、「出雲大社」までがそこに 合わせてしまうと「九」に 固定の意味が発生し「九」という数字に 別の解釈が生まれてしまいます。
(繰り返しになりますが)八雲を描くのに、「8つ」の雲では 意味が壊れてしまいます。
「八」 も 「九」 も 使えない中で、八雲を描くのに残された数を考えたと思うのです。
そこで選ばれた数が「七」だったのかも?
「七」という数字に、悪意があったかどうか?は、正直わかりません。
ここら辺の話を関連して、島根の熊野大社に残る「亀太夫神事」がとても興味深いのですが。
これは、また別の機会に読んでみたいと思います。
真ん中を定めない出雲思想
ここまで、「渦」「八」「八雲の揺れ」を見てきました。
「渦」は、中心が “ある” のに、そこに固定されません。
「八」は、具体的な個数ではなく、「多さ・広がり」という状態を指す言葉でした。
八雲もまた、「8つ」に固定せず、7 や 9 として描かれることで、意味が一箇所に定まりにくくなっていました。
私はこれらを見ていて、出雲には一貫して、「中心(物語・判断・象徴)を一箇所に集約しない」という感覚が流れているように感じます。
出雲神話は、主役が固定されません。
判断も一人に集まりにくく、結末も語り切られず、余白が残ります。
その余白は「説明不足」ではなく、むしろ 意図的に残された沈黙 のように見えることがあります。
もし、中心を一つに決めてしまえば、そこから「正しさ」が生まれ、正しさが生まれれば、いつか「排除」や「勝敗」が生まれてしまう。
出雲は、それを避けるために、あえて真ん中を空けた のではないでしょうか。
だから出雲の秩序は、「完成した円」のように閉じません。
渦のように、壊れないまま動き続ける。
数もまた、「8つ」に固定されず、7 や 9 へ揺れながら、意味が一点に集まるのを避ける。
出雲思想とは、何かを “決め切る” ための思想というより、決め切らないために編まれた思想 なのかもしれません。
中心を定めない。
結論を急がない。
沈黙を残す。
その“ 真ん中の空白” があるからこそ、出雲は今も、読むたびに落ち着かない。
そして同時に、なぜか壊れずに成り立っている。
私が 出雲に感じる不思議さは、たぶんそこにあります。

