記紀神話に残された矛盾を読む|設計として書かれたことと、書かれなかったこと

古事記』や『日本書紀』を読んでいると、どうしても引っかかる部分があります。

同じ出来事なのに語り方が違う、系譜が合わない、説明が途中で途切れる…。

それらは本当に「矛盾」なのでしょうか。

この記事では、記紀に残された違和感を手がかりに、何が書かれ何が書かれなかったのか。

その設計を読むことを試みます。

「矛盾」は、悪意やミスとして読むしかないのか

古事記』や『日本書紀』を読み進める中で、読者が最初に抱く違和感は、「なぜ、こんな食い違いが残っているのか」という点かもしれません。

同じ出来事が別の形で語られ、系譜が一致せず、説明が途中で止まってしまう。

その様子を前にすると、「書き手に何か意図があったのではないか」と感じるのは、自然な反応です。

ときにそれは、「悪意ではないか」という疑念として立ち上がります。

一方で、あまりにも複雑な構成や 情報量を見れば、「単なる編集ミスだったのでは」と考えたくなる場面もあります。

けれど、本当にそれだけでしょうか。

記紀は、複数の立場や記憶相反する系譜をまとめ上げた、極めて特殊な文書です。

そこに残された「矛盾」を、悪意かミスかの二択で処理してしまうと、かえって見えなくなるものがあるように思えるのです。

同じ出来事が、なぜ複数の形で語られているのか

記紀を読んでいると、同じ出来事が、少しずつ異なる形で語られている場面に何度も出会います。

登場人物の系譜が違う、立場が入れ替わる、評価が変わる…。

たとえば、スサノオ命の扱いは、その典型ではないでしょうか。

Wikipedia:スサノオ

天上では乱暴者として追放され、地上では八岐大蛇を退治する英雄として語られる。

さらに系譜や役割も文献ごとに揺れ動き、一貫した像を結びません。

ひとりの神に、相反する評価が重ねられていること自体が、記紀の語りの特徴をよく示しています。

また、出雲系の神々と天孫系の神々の関係においても、対立・服属・婚姻・調停といった異なる構図が重ねて語られています。

どれか一つに整理されることなく、複数の見方が併存している点も、同じ構造と言えるでしょう。

これを「どちらが正しいのか」という視点で読もうとすると、どうしても混乱が生じます。

けれど、そもそも記紀は、ひとつの立場から書かれた物語ではありません。

異なる地域異なる氏族異なる記憶 が持ち寄られ、それらを一つの文書としてまとめ上げる必要があったのです。

そう考えると、語りが一つに統一されていないこと自体が、不自然とは言い切れなくなります。

複数の語りが並置されているのは、「決められなかった」のではなく、「決めなかった」結果なのかもしれません。

記紀が抱え込んだ、消せなかった記憶

もし記紀が、勝者だけの記録であったなら。

不都合な系譜や、対立の記憶は、もっと徹底的に消されていたはずです。

記紀では、ある系譜が正統として語られる一方で、また それと並行する別系統の存在が、完全には否定されずに残されています。

たとえば、ニギハヤヒ命 の存在が、その一例でしょう。

Wikipedia:ニギハヤヒ

天孫降臨とは別の系譜を持ちながら、敵として完全に排除されることもなく、むしろ正統な血筋として扱われる側面も残されています。

一つの系譜に統合しきれない記憶が、否定されない形で併存しているように見えます。

勝者の記録であれば消されていたはずの痕跡が、あえて曖昧な形で抱え込まれているようにも見えます。

たとえば、天孫系の系譜が中心に据えられながらも、在地勢力や別系統の神々が完全には排除されず、物語の周縁や別伝として残されている点も、その一つです。

それでもなお、食い違いや重複、説明の曖昧さが残っている。

それは、完全に消すことができなかった記憶が、確かに存在していたことを示しています。

それぞれの語りには、それぞれの「正しさ」があり、どれか一つを切り捨てることは、新たな対立を生む危険を孕んでいた。

だからこそ、記紀は矛盾を抱え込んだまま成立した。

その不安定さは、弱さではなく、調停の痕跡として読むこともできるのです。

これ以上、血を流さないための「編集」

記紀が編まれた時代、過去の出来事をそのまま「実録」として書くことは、極めて危険な行為だったはずです。

どの系譜が正統なのか、誰が正しいのかを断定すれば、それは新たな争いの火種になりかねません。

そこで選ばれたのが、「神話」という形式でした。

出来事を直接語らず、象徴や物語へと変換することで、衝突を避けながら、記憶だけは残す。

矛盾や曖昧さは、書き損じではなく、これ以上血を流さないための 安全装置 として編集された可能性があります。

はっきり言い切らない。

一つに決めない。

それでも、完全には消さない。

その編集方針が、記紀の構造そのものに刻まれているように思えるのです。

書かれなかったことが、今も沈黙している理由

記紀には、多くのことが書かれています。

けれど同時に、語られていないこと途中で止められた話も数多く存在します。

それらは、単なる欠落ではありません。

書かなかったこと、書けなかったこともまた、設計の一部だったと考えることができます。

すべてを言葉にしないことで、読む人が決めつけずに済む余白が生まれる。

その沈黙は、今も私たちに問いを投げかけ続けています。

記紀に残された矛盾とは、過去をめぐる争いを終わらせるため に選ばれた、ぎりぎりの表現 だったのかもしれません。

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