現代では、瀬織津姫は「破壊(祓い)と再生をあわせ持つ神」として語られることが多くなりました。
けれど、瀬織津姫が多く祀られてきた東北の感覚に目を向けると、どうもその理解だけでは収まりきらない違和感が残ります。
瀬織津姫の役割は、祓い…つまり「終わらせる」工程(冬)であり、「再生」までは担っていないように見えるのです。
それでは、春の再生…「生へ戻す」役割は、いったい誰が引き受けてきたのでしょうか。
本記事では、その「春の工程」に オシラ様 を置き、役割と配置から読み直してみます。
瀬織津姫は、何を終わらせる神なのか|祓戸祝詞以前の役割と、その配置
目次
オシラ様は、何をする神なのか?という違和感から

オシラ様について調べ始めると、とくに近年、瀬織津姫と重ねて語られる文脈の中で、オシラ様が「再生」や「よみがえり」を担う存在として読み取られる説明に出会うことがあります。
・Wikipedia:オシラ様
・Wikipedia:瀬織津姫
けれど、その理解をそのまま受け取ろうとすると、東北の信仰の置かれ方とは、どこか噛み合わない感覚が残ります。
私が引っかかったのは、オシラ様が祀られている場所や距離感です。
社殿の中心に据えられる存在というより、家の内側や生活の延長に、静かに置かれている。
ぽの
もしオシラ様が、死からの再生そのものを司る神であれば、もっと共同体全体を揺さぶる位置にあっても不思議ではありません。
むしろオシラ様は、大きな循環や社会的な再生を動かす存在というより、一度終わったものを、個人や家のスケールへ引き戻す役割を担っていたのではないか。
この違和感こそが、オシラ様を「再生の神」ではなく「戻す工程の神」として読み直してみたいと感じた理由です。
なぜ「再生の神」として語られてきたのか

オシラ様が「再生」や「よみがえり」と結びつけて語られる背景には、いくつかの要因が重なっているように見えます。
ひとつは、死や断絶を含む象徴的な伝承が、非常に印象的であることです。
馬や娘の物語は、変容や移行を強く感じさせるため、その結果として「再生」という言葉が当てられやすくなります。
もうひとつは、近年の信仰や思想の中で、「破壊(祓い)」と「再生」が一続きの流れとして理解されやすくなったことです。
とくに 瀬織津姫 が祓いと再生を併せ持つ存在として語られる文脈の中では、オシラ様もまた、その延長線上に置かれやすくなります。
本来は分業されていた工程が、後世の理解の中で一柱にまとめられていく過程は、他の神々の例を見ても、決して珍しいものではありません。
ただ、ここで注意したいのは、語られ方が変化したからといって、元の役割そのものが消えたわけではない、という点です。
「再生の神」という説明は、オシラ様の働きを分かりやすく伝える一方で、どの段階を担っていた存在なのかを見えにくくしている可能性もあります。
そこで本記事では、その評価を急がず、重ねられてきた理由を踏まえた上で、もう一度配置から読み直していきます。
瀬織津姫の後に置くと、オシラ様は何を担うのか

ここで改めて、瀬織津姫の役割を、「工程」という視点から整理してみます。
瀬織津姫は、穢れや死、共同体が抱えきれなくなったものを、外へと流し切る力を持つ存在として読むと、配置が安定します。
それは浄化であっても、回復や再生そのものではありません。
一度、終わらせる。その工程を、徹底して引き受ける神です。
では、その後はどうなるのでしょうか。
終わらせられたもののすべてが、消滅するわけではありません。
生活に戻されるもの、家や個人の中で、もう一度抱え直されるものもあるはずです。
その段階に置く存在として、オシラ様を考えてみると、「再生」という言葉の意味が、少し違って見えてきます。
瀬織津姫とオシラ様は、同じ役割を担う存在ではなく、時間差で続く別の工程として並べたとき、ひとつの流れの中で自然につながっていきます。
再生とは、奇跡ではなく、順番を踏んだ配置の結果なのかもしれません。
「外へ流す」と「内へ戻す」|混ざらない二つの工程

ここまで見てきたように、瀬織津姫が担う「外へ流す」工程と、オシラ様が担う「内へ戻す」工程は、同時に働くものではありません。
この二つが混ざってしまうと、終わらせる前に戻してしまう、という矛盾が生じます。
東北的な世界観で見ると、この感覚は季節の移り変わりに近いように思えます。
冬は、止める季節です。
流れを断ち、閉じ、いったん終わらせる時間。
春は、そこから再び動き出す季節ですが、冬そのものを否定するわけではありません。
順番があるからこそ、次の工程が成立します。
瀬織津姫の工程が十分に果たされていない状態で、「戻す」力だけを強めてしまえば、再生は軽くなり、生活の中では耐えきれないものになります。
終わらせることと、戻すことは、どちらが欠けても成立しません。
混ざらない二つの工程が、時間差で連なっているからこそ、再生は現実の中で機能してきたのではないでしょうか。
戻すとは、奇跡ではなく「生活へ戻す」こと

ここで言う「戻す」とは、失われたものが元どおりになる、という意味ではありません。
それは奇跡でも、劇的な回復でもなく、もう一度、生活の中に置き直すことです。
オシラ様が家の内側や身近な場所で祀られてきたことを考えると、その役割は、社会全体を動かす力というより、個人や家が抱え直せる範囲に調整する働きだったのではないか、そんな可能性が浮かび上がります。
終わらせる工程を経たあと、すべてが戻されるわけではありません。
戻さない、という選択も含めて、その中の一部だけが、生活へと引き戻される。
オシラ様が担うのは、その「戻してもよいもの」を、再び日常のリズムに組み込む工程だったのかもしれません。
再生は、感情の問題ではなく、段階を踏む行為です。
終わらせ、時間を置き、そして必要なものだけを戻す。
その静かな工程があったからこそ、再生は軽くならず、生活の中で持続してきたのではないでしょうか。
ただし、すべてが「戻される」わけではありません。
終わらせたものの中には、あえて生活へ戻さず、次の段階へと預けられるものもあります。
その分岐に立つ存在として語られてきたのが、常世という世界観であり、常世岐姫です。
この「戻さない」という選択については、次の記事で、あらためて整理してみたいと思います。

