大阪にある 産湯稲荷神社 の 玉之井の社 について。
産湯稲荷神社【大阪河内】
大阪 の 河内 にある「産湯稲荷神社」とその周辺には、ちょっと気になる伝承が残っています。
「天稚彦 が天から降りてきたとき、彼に付き従って降ってきた神「天の探女」が、天の磐船 に乗ってこの地に到着した」
のだとか。
天の磐船 といえば、饒速日です。…が、この伝承では「天の探女」となっています。
そして、「天の探女」といえば、天稚彦 や アヂスキタカヒコネ・下照姫 が関連して思い出されますが。
今回ご紹介する、「産湯稲荷神社」と境内にある「産湯玉之井」には、下照姫・アヂスキタカヒコネ が祀られています。
饒速日と、天稚彦 や アヂスキタカヒコネ・下照姫 が、この土地(大阪河内)でどう関連するのか?
そこはまだ不明ですが、ヒントがあるかもしれません。
というわけで、、「産湯稲荷神社」と境内にある「産湯玉之井」についてまとめてみます。↓↓↓
産湯稲荷神社の基本情報
【産湯稲荷神社 玉之井の社】大阪府 大阪市 天王寺区 小橋町3−3
産湯稲荷神社 は、もともと比売許曽神社 の 境内摂社として創建されました。
天正年間(1573~1593年)の 石山合戦(織田信長による石山本願寺攻め)による兵火で 比売許曽神社 が焼失。
その後、比売許曽神社 は 現在の東成区に遷座しましたが、産湯稲荷神社 は元の地に再建され、現在は 比売許曽神社 の御旅所・末社となっています。

比売許曽神社 と 産湯稲荷神社
産湯稲荷神社 の御祭神は以下の通り。↓↓↓
玉之井の社
そして、「玉之井の社」は、産湯稲荷神社 の 境内の一段低い場所にある井戸のこと。
神功皇后 の 近臣である 雷大臣 が大小橋命 を生んだ際に、この井戸の水を産湯に用いたと伝えられています。

産湯稲荷神社と玉之井の社
産湯玉之井 の 井戸の上には お社 があり 6柱の神様が祀られています。
磐舟山の碑
【磐舟山の碑】大阪府 大阪市 天王寺区 味原町11
話は少しそれますが、産湯稲荷神社 の近くに「磐舟山の碑」という場所があります。
「磐舟山の碑」がある場所は
磐舟といえば、饒速日が乗ってきたとされる 天磐舟 の伝承や、大阪でいうと「磐船神社」が有名ですね。
↑↑↑ ちなみに、「磐舟山の碑」と「磐舟神社」位置関係はこのような感じ。↓↓↓
かつての大阪湾のあたりはもう少し海抜が低かったみたいなので、仮に2m低かったと仮定すると…

(引用:海面上昇シミュレーションシステム)
↑↑↑こんな感じかな?↓↓↓

(水色斜線の部分はかつて海だった)
「磐舟山の碑」自体は比較的近世に置かれたものっぽいのですが、この場所「それを置いた」意味はというものああると思われまして。
それが、気になるポイント。
大阪市 天王寺区 味原町
これが、「磐舟山の碑」のある場所の住所なのですが、「味原」は「アヂスキタカヒコネ」の「アジ」から来ているという説があります。
その原典は 不明なのですが、近くにある「産湯稲荷神社」の「玉の井の社」に「アジスキタカヒコネ」が祀られているのを見ると、その関係が気になりますね。
「実際に関係があった」のか?後世で「(何らかの理由で)関係があったことにしたかった」からそうしたのか?は不明ですけれども。
摂津国風土記(難波高津郡)
摂津国風土記(難波高津郡)に、「天稚彦の伝承」として以下の様な内容があります。↓↓↓
摂津国風土記に 曰く、
難波高津は、天稚彦、天降りし時、
天稚彦に 付きて下れる神、天の探女、磐舟に乗りてここに至る。
天磐船の 泊る故をもって、高津と号す。
もう少し現代風に訳すとこんな感じ。↓↓↓
摂津国風土記に曰く、
難波の 高津 という地名は、天稚彦 が天から降りてきたとき、彼に付き従って降ってきた神「天の探女」が、天の磐船 に乗ってこの地に到着した。その「天磐船」がここに 泊(泊まった)ことから、この地を「高津」と呼ぶようになった。
参考サイト
<Wikipedia>
・比売許曽神社
・大小橋命
・天児屋命
産湯稲荷神社【大阪】|まとめ
というわけで、産湯稲荷神社 は「饒速日」と直接関わる伝承はありません。
が、付近に「天の探女 の、天の磐船 伝承」があるなど、産湯稲荷神社 の 祭神との関係も含めて とても興味深く。
いつか何かの情報が繋がるヒントとなれば嬉しいなと思います。
以上、
「産湯稲荷神社の玉之井の社【大阪】」についてのブログ記事でした。