「坂」は「雀」だった?|尼崎の雀部・坂部と「坂」のつく古代神名

最近読んだ本や調べものの中で気になった古代の話を、自分の備忘録としてメモしていくシリーズです。

今回は、尼崎の雀部(ササベ)と坂部(サカベ)について。

尼崎の雀部郷について調べていると、現在の上坂部・下坂部につながる「坂部」という地名について、気になる説が見つかった。

坂部の「サカベ」は、雀部の「ササベ」が変化したものではないか。

これが事実なら、古代の神名や人名に現れる「坂」も、単なる坂道や境界を意味するとは限らない。

もしかすると、その一部には雀部・ササベにつながる「坂」が含まれているのではないか。

<関連記事>
「雀」は先発、「坂」は後発の海人だった?|ササベとサカベの二層仮説

「スズメ」についての記事一覧
「尼崎」についての記事一覧

尼崎では「雀部」が「坂部」になった?

尼崎市には現在も、上坂部・下坂部という地名がある。

この坂部の由来については、複数の説が紹介されている。

①中世の雀部氏に由来し、ササベがサカベに変化したとする説
②土地の境界を管理した坂合部・境部に由来する説
③酒造に関わる酒部が坂部になったとする説

そのうち一つが、今回気になったササベ→サカベ説」である。

尼崎市教育委員会の地域学習資料には、

下坂部には中世雀部〔ささべ〕氏の氏寺があったというから、ササベ→サカベと考える説

と書かれている。

尼崎市立園田南小学校「わたしたちのまち坂部」

また、尼崎市の地域史資料でも、中世の大島雀部荘は「大島雀部〔ささべ〕荘」と読まれている。

Web版尼崎地域史事典「大島荘」

つまり尼崎では、少なくとも地名由来説の一つとして、

雀部
ササベ

坂部
サカベ

という音の変化が想定されている。

「坂」は「雀」を残した字ではないか

この説を見て最初に思ったのが、

「坂もやったんちゃうの?」

ということだった。

もちろん、全国にあるすべての「」が雀部に由来するという意味ではない。

しかし、古代の人名・神名・氏族名に現れる「坂」の中には、地形としての坂とは別に、

雀部という集団名
・ササベからサカベへの音の変化
・坂合部など、別系統の氏族名との習合

が隠れているものもあるのではないか。

特に気になるのが、崇神天皇から垂仁天皇景行天皇にかけての系譜である。

この時期には、名前に「」を持つ人物や神が意外に多い。

崇神天皇の皇子・八坂入彦命

崇神天皇の皇子に、八坂入彦命がいる。

『古事記』では八坂之入日子命、『日本書紀』では八坂入彦命と表記される。

母は、尾張連の祖にあたる意富阿麻比売(尾張大海媛)である。

崇神天皇

意富阿麻比売

八坂入彦命

ここで八坂入彦命の母に、「阿麻(アマ)」が現れる。

今回の流れで見ると、

> アマを名に持つ母から、「坂入彦」が生まれる

という系譜になる。

さらに八坂入彦命の「入彦」は、以前から気になっている入日子・入彦の形でもある。

八坂+入彦という名前自体が、八坂と呼ばれた勢力へ入った彦、あるいは八坂から王統へ入った彦のようにも見えてくる。

八坂入彦命の娘・八坂入媛命

八坂入彦命の娘が、八坂入媛命である。

八坂入媛命景行天皇の妃となり、後に皇后となった。

成務天皇をはじめ、多くの皇子・皇女の母とされている。

崇神天皇

八坂入彦命

八坂入媛命

景行天皇の皇后

成務天皇

つまり「八坂」は、一代だけの名前ではない。

父の八坂入彦命から、娘の八坂入媛命へ継承され、さらに皇統へ入っている。

これを単なる居住地名と見ることもできるが、八坂と呼ばれる集団または王族名が婚姻によって皇統へ組み込まれたようにも見える。

崇神天皇が祀った墨坂神と大坂神

崇神天皇の時代には、人物名だけでなく、祭祀の対象としても「」が現れる。

疫病が広がった際、崇神天皇は夢告に従い、

・大和の東にある墨坂神
・大和の西にある大坂神

を祀った。


墨坂神には赤い盾と矛大坂神には黒い盾と矛を奉ったとされる。

東の境界:墨坂神赤い盾と矛
西の境界:大坂神黒い盾と矛

『古事記』ではさらに、諸坂之神川瀬の神々に幣帛ヘイハクを奉ったとされている。

諸坂之神(もろもろのさかのかみ)は、特定の一柱を指す神名ではなく、各地の坂や峠に祀られていた神々の総称である。

『古事記』崇神天皇段では、疫病を鎮めるため、宇陀の墨坂神と大坂神を祀った後、諸国の坂神や河瀬の神々へ幣帛を奉ったとされる。

坂や峠は、集落・国・異なる世界を分ける境界であり、外から疫病や災いが入ってくる場所とも考えられていた。

そのため諸坂之神には、道や境界を守り、外から来る災いを防ぐ神という性格があったとみられる。

川瀬の神々も特定の一柱を指す神名ではなく、各地の川の瀬や渡河地点に祀られていた神々の総称である。

川の瀬は、水の流れが浅くなり、人や物が川を渡る場所だった。一方で、洪水や水難が起こりやすく、土地と土地を分ける境界でもあった。

崇神天皇は、陸路の境界である坂と、水路の境界である川瀬の神々をまとめて祀り、外から入る疫病や災いを鎮めようとしたと考えられる。


つまり崇神天皇の時代には、

・皇子の八坂入彦命
・東の墨坂神
・西の大坂神
・各地の諸坂之神

が同時に現れる。

「坂」が単なる道路の傾斜を意味するだけなら、ここまで祭祀と王族名に集中して現れることが気になる。

坂の神は一般には、峠や国境を守る境界神と説明される。

しかし「ササベ→サカベ」という変化が実際に想定されているなら、これらの坂神の一部に、坂・境界を管理した集団、あるいは雀部系の祭祀集団が重なっていた可能性も考えてみたくなる。

大多牟坂王

開化天皇の皇子・日子坐王の系譜にも、大多牟坂王が現れる。

大多牟坂王は、日子坐王の後裔である息長宿禰王と、河俣稲依毘売の子とされ、但馬国造の祖と伝えられる。

日子坐王の系統

息長宿禰王

大多牟坂王

但馬国造の祖

『古事記』中巻・開化天皇段

大多牟坂王は崇神・垂仁世代そのものではないが、日子坐王から息長氏、但馬国造へ続く北方系譜の中に「坂」が現れる例として重要である。

しかも但馬は、丹波・丹後とともに日本海側の海人文化を考えるうえで気になる地域である。

丹波国天田郡には雀部郷があり、その北方に広がる但馬国造の祖が大多牟坂王とされる。

ここでも、

丹波国天田郡の雀部郷

但馬国造の祖・大多牟坂王

という「雀」と「坂」の近接が見えてくる。

和珥坐赤坂比古神社の赤坂比古

奈良県天理市和爾町には、式内大社の和珥坐赤坂比古神社がある。

赤坂比古は、現在の祭神である阿田賀田須命の別名とされ、和珥氏の祖神とも説明されている。

天理市観光協会「和爾坐赤坂比古神社」

この場所は、崇神天皇の時代に大彦命と彦国葺命が武埴安彦を討つ際に登場する和珥坂・丸邇坂の付近でもある。

塚田敬章氏は、赤坂比古神について、和珥坂で採れる霊力を持つ赤土そのものを祀った神ではないかと見ている。

塚田敬章氏「和邇坐赤坂比古神社と東大寺山古墳」

和珥氏

和珥坂

赤坂比古

崇神朝の反乱鎮圧

八坂入彦命と同じく、ここにも「坂+彦」の形がある。

坂が単なる地名なのか、坂を拠点とした王・祭祀者を表すのか、あるいは雀部・坂合部などの集団名と関係するのかが気になる。

景行天皇・倭建命の物語に現れる坂神

景行天皇の時代、倭建命の東征にも複数の坂神が登場する。

足柄之坂神

足柄坂では、坂の神が白い鹿の姿で現れる。

倭建命は蒜を投げつけ、坂神を殺したとされる。

科野之坂神

信濃と美濃の境にある神坂峠には、科野之坂神がいた。

『古事記』では、倭建命がこの坂神を服従させたとされている。

國學院大學「科野之坂神」

ここでは坂神は、中央から祀られる神ではなく、東征によって討伐・服従させられる土地側の神として描かれている。

崇神天皇が墨坂神・大坂神を祀ったのに対し、倭建命は足柄や科野の坂神を討つ。

同じ「坂神」でも、王権との関係によって、

・祀られる坂神
・服従させられる坂神
・殺される坂神

に分かれていることになる。

その後の「坂」を持つ人物

崇神・垂仁期より後にも、「坂」を名に持つ皇族が現れる。

名前 時代・系譜 概要
麛坂皇子・香坂王 仲哀天皇の皇子 忍熊皇子とともに神功皇后・応神側と対立。祈狩の際に赤い猪に襲われる
忍坂大中津比売命 応神天皇の孫 允恭天皇の皇后。安康天皇・雄略天皇らの母
坂合黒彦皇子 允恭天皇の皇子 忍坂大中姫の子。「境黒彦皇子」「境之黒日子王」とも表記される

坂合黒彦皇子の「坂合」は、『古事記』ではと書かれる。

そのため、サカには実際に境界という意味が重ねられていたことが分かる。

ただし、「境」という意味で理解されていたからといって、その名称の出発点まで最初から地形や境界だったとは限らない。

既存の「サカ・ササ」という集団名に、後から意味の分かりやすい「坂・境」の字が当てられた可能性も残る。

「坂」のつく神名・人名一覧

今回確認できた主な名前をまとめると、次のようになる。

名前 分類 関係する時代
八坂之入日子命・八坂入彦命 崇神天皇の皇子 崇神
八坂入媛命 八坂入彦命の娘・景行天皇皇后 垂仁~景行
墨坂神 大和東方の坂神 崇神
大坂神 大和西方の坂神 崇神
諸坂之神 各地の坂の神々 崇神
赤坂比古神 和珥坂の神・和珥氏祖神説 崇神伝承と接続
大多牟坂王 日子坐王後裔・但馬国造祖 崇神以後の系譜
足柄之坂神 白鹿として現れる坂神 景行・倭建
科野之坂神 神坂峠の神 景行・倭建
麛坂皇子・香坂王 仲哀天皇皇子 仲哀・神功
忍坂大中津比売命 允恭天皇皇后 允恭
坂合黒彦皇子 允恭天皇皇子 安康・雄略

特に崇神天皇周辺だけでも、

八坂入彦命
墨坂神
大坂神
諸坂之神
和珥坂
赤坂比古神

が集中している。

「坂」は、崇神朝を考えるうえで意外に重要な語なのかもしれない。

塚田氏の「越」と川上氏の「呉越系」

塚田敬章氏の分類では、坂上氏・漢氏・文氏・坂合部氏などは、主に越系に置かれている。

一方、雀部については、これまで見てきた系譜やトーテムの整理では呉系楚人側に現れる。

塚田氏の分類をそのまま当てはめるなら、

坂・坂合部――越系
雀・雀部――呉系楚人側

となり、坂と雀は別系統に見える。

しかし尼崎では、実際にササベからサカベへ変化したという説が残されている。

ここから考えられるのは、

・雀部と坂合部という異なる集団が同じ土地で重なった
・雀部のササベがサカベへ変化し、坂合部の表記と習合した
・もともと近い文化を持つ集団が、後に呉・越・楚の系統へ分かれた

という複数の可能性である。

川上しのぶ氏のいう「呉越系」は、春秋戦国時代の呉人・越人だけではなく、河姆渡文化・良渚文化や三苗系まで遡る広い文化層を指している。

その整理なら、

長江文明・三苗系の古い文化

鳥・太陽・稲作・航海の信仰

後に呉・越・楚などへ分化

日本では雀部・坂合部など別の氏族名として現れる

という流れも考えられる。

塚田氏の細かな分類では「坂=越」「雀=呉系楚」と分かれていても、川上氏の大きな分類では、どちらも古い呉越系・三苗系文化の異なる枝として扱うことができる。

まとめ

尼崎の坂部には、中世の雀部氏に由来し、

ササベ

サカベ

と変化したという説がある。

この説から考えると、古代の神名や人名に現れる「坂」の一部も、雀部やササベ系の集団名を別の文字で表したものだった可能性が浮かんでくる。

特に崇神天皇周辺には、

八坂入彦命・墨坂神・大坂神・諸坂之神・赤坂比古神

など、「坂」を名に持つ人物・神・祭祀が集中している。

さらに、

八坂入彦命の母は意富阿麻比売
大多牟坂王は但馬国造の祖
丹波国天田郡には雀部郷が存在
尼崎では雀部と坂部が重なる

という配置もある。

アマの土地

雀部・ササベ

坂部・サカベ

坂を名に持つ彦・王・神

「坂」は本当に地形としての坂だけなのか。

それとも、その一部には「雀」を名に持つ古い集団や、呉越系・三苗系の鳥信仰が隠れているのか。

坂は雀だったのではないか。

尼崎の地名から始まった疑問として、ひとまずメモしておきたい。

<関連記事>
「雀」は先発、「坂」は後発の海人だった?|ササベとサカベの二層仮説

「スズメ」についての記事一覧
「尼崎」についての記事一覧

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
尼崎
     尼崎・大物主神社をめぐる考察

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です