「もと日高見国」の地に物部がいた|常陸国風土記逸文の物部河内・物部会津

日高見国」の時代から、関東には「物部氏」がいたっぽい話。

…に、クシヒカタを追いかけていて辿り着いたのでメモ。

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クシヒカタ→日高見国

クシヒカタの系譜を整理していたはずなのに。

大日諸命

春日県主

神八井耳命

祝(ハフリ)

出雲伊波比

武蔵
物部

と話がどんどん飛び、気づけば日高見国まで来てしまった。

その途中で見つけて、

「これは絶対、明日になったら忘れるやつ!」

と思った大事そうな話があるので、メモします。

それは、『常陸ヒタチ風土記』逸文に残る 物部河内・物部会津 の記事。

「この地は、もと日高見国なり」

常陸ヒタチとはここね。↓↓↓

(引用:Wikipedia 常陸国

現在残っている『常陸国風土記』本文ではなく、後世の『釈日本紀』に引用された逸文として、信太シダの成立について次の記録が残っている。

白雉4年(653)、

小山上:物部 河内
大山上:物部 会津

らが、惣領の高向大夫らに願い出て、筑波郡・茨城郡から700戸を分け、信太シダを置いたという。


そして、その直後に、

「此地本日高見國也」

――「この地は、もと日高見国である」

と記されている。

これを見て、

「え。日高見国だったとされる土地に、物部がおるやん?」

となった。


もちろん、この一文だけで、

日高見国物部の国だった」

とは言えない。


ただ少なくとも、

「もと日高見国」と伝えられた地域を、7世紀中頃に物部姓の人物たちが再編している

という組み合わせは、忘れないようにしておきたい。

物部河内・物部会津は何をしていたのか

『常陸国風土記』の建評記事を考察した白石太一郎氏は、信太シダ行方ナメカタ・香島・多珂などの建評記事について、7世紀中頃の国造制から評制への再編を具体的に示す重要な史料として扱っている。

つまり、物部河内物部会津がやっているのは、

「たまたまそこへ行った」

という程度の話ではない。

既存の筑波郡茨城郡から700戸もの人々を割き、

新しい地域行政単位を成立させる側

として登場している。


では、この二人は中央から派遣されてきた人物なのか。

それとも、それ以前から当地に基盤を持っていた地方豪族なのか。

今のところ、私にはまだわからない。


ただ、

653年に信太郡が成立した

=653年に物部が初めてこの土地へ来た

とは限らない。

ここは今後、もう少し遡って調べたい。

「物部守屋に負けて東へ逃げた」だけでは説明できない?

中央の物部本宗が大きく敗れるのは、物部守屋蘇我馬子らに敗れた587年

信太郡成立の653年より、66年前である。

なので、

「中央で敗れた物部系の人々が東へ移動したのでは?」

という可能性も、一応は考えられる。

ただ、東国の物部を調べていくと、話はそれほど単純ではなさそうである。

物部姓物部系集団は、西日本だけではなく東海道・東山道方面にも広く分布していることが研究で指摘されている。

小林昌二氏も、全国に分布する「物部」と中央の物部連氏との関係を問題にし、物部の分布が西国だけでなく東国にも広く展開していたことを取り上げている。

だとすると、

中央の物部氏が敗れたあと、残党が東へ逃げた

だけではなく、

もっと早い段階から、東国にも「地方物部」と呼べる集団やネットワークが存在していた

可能性も考える必要がありそうだ。

ただし「乙巳の変より前から信太にいた」とはまだ言えない

ここは自分用に注意。

信太郡が置かれた白雉4年は653年

蘇我入鹿が殺された乙巳の変は645年なので、この記録自体は乙巳の変より8年後である。

したがって、この史料だけを根拠に、

「天智・天武や蘇我入鹿の時代より前から、物部河内たちは信太にいた」

とはまだ書けない。

また、

「此地本日高見國也」

も、

「653年の直前まで日高見国だった」

という意味ではない。

もっと古い土地伝承を記している可能性がある。

今の段階で確認できるのは、

「もと日高見国」と伝える土地の7世紀中頃の行政再編に、物部河内物部会津という人物が関わっている

ところまで。

そこから先は調査課題として残す。

そもそも「日高見」と「物部」はいつから重なるのか?

今回、一番残しておきたい疑問はこれ。

物部河内・物部会津は、なぜ「もと日高見国とされた土地にいたのか?

そして、

653年より前に、常陸やその周辺物部系集団の存在を確認できるのか?

もし6世紀、5世紀……と遡れるなら、

「中央の物部氏が東へ進出した」

という一方向の説明だけでは足りなくなるかもしれない。


逆に、それ以前の痕跡がほとんど見つからなければ、

大和王権による東国支配の過程で、物部系集団が配置・編成された

と考える方が自然かもしれない。


さらに、

もともと東国にいた在地集団が、王権に組み込まれる過程で「物部」と呼ばれるようになった

可能性もある。

今のところは、どれも仮説。

答えはまだ出さない。

クシヒカタから、なんで日高見まで来たんや

今回の調査は、もともと日高見国を調べていたわけではない。

始まりはクシヒカタだった。


クシヒカタの系譜を整理している途中で大日諸命が出てきた。

大日諸命が春日県主とされていることが気になり、さらに神八井耳命との間に、

神八井耳命=神事を主る側

大日諸命=祝(ハフリ)として奉仕する側

という祭祀分業のような伝承があることを知った。


そこから、

祝(ハフリ)とは何か?
斎ひ(イハヒ)とは何か?

と調べ始め、武蔵の出雲伊波比神社へ。

さらに、所沢の物部天神社、ニギハヤヒ、武蔵・入間の物部直へ話が飛び、

「東国って、思っていた以上に物部がいるんじゃない?」

という疑問が出てきた。

そして東国の物部を追った結果、

「もと日高見国」の地に現れる物部河内・物部会津

にぶつかった。

クシヒカタから日高見国まで飛んだ。

自分でも意味がわからない。笑

でも、この寄り道から何か見えてくるかもしれないので、まずはここを現在地としてメモしておく。

今後調べたいこと

まずは常陸・下総・武蔵・上野・陸奥など、東国に確認できる地方物部を年代順に並べる

そして、

中央物部氏が東へ展開したのか。

東国在地勢力が「物部」として編成されたのか。

その両方が重なっているのか。

を見ていきたい。

さらに、「日高見」という名称が各史料でどの地域・どの時代を指しているのかも、別記事で整理する。

今のところは、

「日高見国=物部」ではない。

でも、

「もと日高見国」とされた土地の支配史に、物部河内・物部会津が登場する。

まずはここから。

参考

『古事類苑』地部「常陸国」―『釈日本紀』所引『常陸国風土記』信太郡逸文
白石太一郎「常陸の後期・終末期古墳と風土記建評記事」『国立歴史民俗博物館研究報告』第35集
小林昌二「物部の分布とその意味について」

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