塚田敬章氏の説では、
呉人
↓
呉系楚人
↓
越人
という順に、日本列島へ複数の渡来集団が入ったと考えられている。
その中で、
最も後発の大きな渡来層
として出てくるのが越人。
ここでいう「越人」は、
日本の越=コシとは別。
中国南部にいた越(エツ)系集団についての話になる。
今回は、塚田敬章氏がこの越人をいつ頃日本へ来た集団とみているのか、整理しておく。
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越人は一つの集団ではない
まず大事なのは、
「越人」といっても一つの民族・国家ではない
ということ。
中国南部には、
閩越
東越
東甌
など、
複数の越系集団が存在していた。
塚田氏も、これらを一枚岩の集団としてではなく、
複数の越系勢力
として扱っている。
東越の滅亡
重要な転機になるのが、
紀元前109年。
漢の武帝によって東越が滅ぼされた。
その後、越系住民の一部は、
江淮地方
などへ移されたとされる。
つまり、
越人
↓
国家滅亡
↓
強制移住・流民化
という流れが起こる。
王莽の「新」の混乱
さらに時代が下ると、
王莽
による「新」の時代に入る。
西暦8年から23年。
この頃、中国各地では、
戦乱
飢饉
反乱
が相次いだ。
塚田氏は、
この混乱の中で、
江淮地方などにいた越人の一部が中国を脱出した
と考える。
まず馬韓へ移動した?
塚田氏の年表では、
紀元22年ごろ
越系集団の一部が、
馬韓
へ移動したとする。
さらに、
紀元65年ごろ
には、
辰韓方面
へ移ったと考える。
つまり、
中国南部
↓
江淮地方
↓
馬韓
↓
辰韓
と、朝鮮半島を段階的に移動していく。
日本への渡来は紀元80~100年ごろ
塚田氏が後発越人の日本渡来として置くのが、
紀元80~100年ごろ。
つまり、
紀元1世紀後半
になる。
呉人の紀元前5世紀、
呉系楚人の紀元前2世紀と比べると、
かなり後。
塚田氏の渡来順を単純化すると、
呉人
=紀元前5世紀
↓
呉系楚人
=紀元前2世紀
↓
越人
=紀元1世紀後半
となる。
上陸地は北部九州
塚田氏は、この後発越人が日本へ来た際の上陸地として、
福岡県津屋崎周辺
などを想定している。
そこから、
宗像系勢力
などとも関わりながら、
列島内へ勢力を広げていったと考える。
先住の呉人系勢力との対立
越人が日本へ来た時、
すでに日本列島には、
呉人
呉系楚人
などが存在していた。
塚田氏は、
越人+呉系楚人
と、
先行呉人系勢力
との対立を、
倭国大乱
の背景として考える。
つまり、
後発勢力が先行勢力と争い、その一部を取り込んでいく
という構図。
物部・大伴・久米などとの関係
塚田氏の分類では、
越人系文化と関連する氏族として、
物部
和邇
安曇
大伴
久米
など、かなり多くの氏族が登場する。
また、
椎髻
美豆良
などの髪型も、越人文化と関連づけて考えている。
そのため塚田氏の説では、
越人は単なる一地方の渡来人ではなく、
後のヤマト王権形成にかなり深く関わった勢力
として扱われている。
「越人」と日本の「越=コシ」は分けて考える
ここは特に注意したい。
塚田氏がいう越人は、
中国南部の越(エツ)系集団。
一方、日本には、
高志
古志
越
と書かれるコシという地域・勢力名がある。
同じ「越」という字が使われるが、
最初から同じ集団として扱うべきものではない。
今のところは、
中国の越人
と
日本のコシ
は分けた上で、
文化・習俗・神話などに共通点があるかを比較していきたい。
今のところのメモ
塚田敬章氏の説では、
越人は呉人・呉系楚人より後に日本へ渡来した集団。
特に後発の越人については、
東越などの滅亡
↓
江淮地方へ移動
↓
王莽の新の混乱
↓
馬韓
↓
辰韓
↓
紀元80~100年ごろ日本へ
という流れが想定されている。
塚田氏の渡来系譜を見る際には、
「越人=後発だから新しい」
というだけでなく、
先にいた呉人・呉系楚人を取り込みながら、日本列島内で新しい勢力を形成していった
という点も意識しておきたい。
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