雀ノ森氷川神社|金毘羅尊像はなぜ宮中から川越へ戻った?(912~939の東国)

川越市新宿町にある雀ノ森氷川神社の由緒を読んでいて、気になった年代がある。

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由緒では、空海が刻んだとされる金毘羅尊像について、

  • 延喜12年(912):桃園貞純朝臣(貞純親王)の計らいによって宮中に祀られる
  • 天慶2年(939):源経基から雀ノ森の社へ寄附される
・

※ 貞純親王 と 源経基 は父子

と伝えられている。

いったん宮中(京都?)で祀られた尊像が、なぜわざわざ遠く離れた武蔵国へ戻されたのだろう?

この912年から939年という時代に何が起きていたのか、少し調べてみた。

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延喜12年(912)は「延喜の治」の時代

延喜12年(912)は、醍醐天皇の時代。

延喜年間(901~923)は、後世「延喜の治」と呼ばれた時期で、藤原氏の摂関政治が一時的に後退し、天皇自身が政治の表面に立った時代とされている。

『延喜式』などの法制度の整備、『古今和歌集』の編纂などが進められたのもこの頃である。

▶ コトバンク|延喜の治

雀ノ森氷川神社の由緒では、この延喜12年に、

桃園貞純朝臣(貞純親王)の計らいで、空海作とされる金毘羅尊像が宮中の宝内殿に祀られた

という。

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それ以前にも尊像自体は宮中へ「納められた」とされているため、

宮中へ納める
↓
後になって改めて「祀る」

という二段階になっているのも少し気になる。

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しかし、なぜ912年に改めて祀られることになったのか、その理由は由緒には記されていない。

日本に置いて「祀る」と「祟る」はセットである事が多い。

鎮めたい事(=祟り)が何かあったのか?

912年ごろの都では何が起きていた?

この少し前、延喜3年(903)には菅原道真が大宰府で亡くなっている。

道真は延喜元年(901)に大宰府へ左遷され、その2年後に死去した。

後に道真の死後、都では雷や災害などが相次ぎ、それが道真の祟りではないかと恐れられ、天神信仰へつながっていくことになる。

▶ 太宰府天満宮|御由緒

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ただし、

「912年に金毘羅尊像を祀ったのは、道真の祟りや災害対策だった」という資料があるわけではない。

今のところ、912年にこの尊像を祀った理由そのものは不明。

ここは、「何かあったから祀った」と決めるより、

なぜこの時期に、宮中に納められていた尊像を改めて祭祀対象にしたのか?

という疑問として残しておきたい。

そして27年後、天慶2年(939)

ところが、939年になると状況が大きく変わる。

この年は、

平将門の乱が本格化した年

である。

平将門は下総を中心に勢力を持っていた人物で、935年ごろから一族内の争いを繰り返していた。

その頃、武蔵国でも争いが起きている。

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武蔵国の権守興世王と 武蔵介源経基が、在地の有力者である武蔵武芝と対立。

そこへ将門が仲裁に入った。

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ところがこの一件をきっかけに、源経基は都へ戻り、

「平将門らに謀反の疑いがある」と朝廷へ訴えることになる。

▶ 葛飾区史|平将門の乱

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そして天慶2年(939)、将門は常陸国府を攻撃。

さらに下野国府・上野国府を制圧し、最終的には「新皇」を名乗るまでになる。

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ここで、それまで東国の豪族同士の争いだったものが、

朝廷に対する反乱

へと大きく変化した。

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・

翌940年、将門は藤原秀郷・平貞盛らによって討たれている。

源経基は、まさに武蔵の争いの当事者だった

ここで雀ノ森氷川神社の由緒へ戻る。

金毘羅尊像を当社へ寄附したとされるのは、源経基 である。

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しかも寄附されたとされる年は、天慶2年(939)。

つまり、

武蔵国で在地勢力との争いが起こり
↓
源経基
自身がその争いの当事者となり
↓
平将門
が介入し
↓
将門の乱
が国家的反乱へ発展した

まさにその時期に、

宮中で祀られていたとされる金毘羅尊像が、武蔵国の雀ノ森へ寄附された

という由緒になっている。

これはちょっと気になる。

「東国の金神の総社」とされたのもこの頃?

さらに由緒では、尊像が当社へ寄附された話の直後に、

「天皇の勅願により東国の金神の総社とされた」と続く。

「東国の金神の総社」とされた正確な年は明記されていないが、文章の流れでは、

939年に尊像が当社へ寄附
↓
天皇の勅願
によって「東国の金神の総社」となる

という流れに読める。

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・

だとすると、

東国で大きな争乱が起きた時期
+
宮中で祀られていた尊像を武蔵へ移す
+
「東国の金神の総社」とする

という組み合わせになる。

単なる「尊像を元の神社へ返した」というより、

東国を鎮めるための祭祀

だったのでは?

と考えたくなる。

・
・

もちろん、由緒に「平将門の乱を鎮めるため」と直接書かれているわけではない。

ただ、939年という年を実際の歴史と重ねると、

なぜこの年に、わざわざ宮中から武蔵へ尊像を移したのか?

という疑問はかなり大きくなる。

「雀の森=鎮めの森」ともつながる?

さらに雀ノ森氷川神社については、

「雀の森」は「鎮めの森」の意味ではないか

という説明も残されている。

この名前自体は、もっと後世に旧地へ戻った際の呼称とされているため、939年の出来事とそのまま直結させることはできない。

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それでも、

東国の争乱
↓
尊像を武蔵へ
↓
東国の金神の総社
↓
後世には「鎮めの森」

という言葉が一つの神社の由緒に並ぶのは、かなり気になる。

912年から939年の間に見えてくるもの

ひとまず年代を整理すると、

延喜12年(912)
醍醐天皇の「延喜の治」の時代。
桃園貞純朝臣(貞純親王)の計らいにより、金毘羅尊像が宮中で祀られたと伝える。

↓ 27年

930年代
坂東各地で国司・在地豪族・有力者の争いが激しくなる。

↓

天慶2年(939)
武蔵では源経基・興世王と武蔵武芝が対立。
平将門もその争いに関与する。

同年、将門が常陸・下野・上野へ勢力を広げ、朝廷に対する反乱へ発展。

その同じ年に、雀ノ森氷川神社の由緒では、

源経基から金毘羅尊像が当社へ寄附された

とされる。

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・

さらに、

「東国の金神の総社」

とされたとも伝える。

・
・

こうして年代を並べてみると、

宮中に祀られていた尊像が、なぜ939年に武蔵へ戻されたのか?

という疑問はますます気になる。

「東国を鎮めるためだったのでは?」

というところまで想像したくなるが、今のところそこを直接裏付ける資料は見つかっていない。

ひとまず、

天慶2年(939)は平将門の乱が本格化した年であり、尊像を寄附したとされる源経基自身が、その直前から武蔵国の争いの中心人物だった

という点を、あとでまた戻れるようにメモしておく。

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