東鯷人についての備忘録メモ。
東鯷人は「呉系の楚人」なのか?
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目次
呉人と「呉系楚人」は別グループ

塚田敬章氏は、呉人 と 呉系の楚人 を分けて考えている。
<参考>
・古代史レポート:(塚田敬章)
大まかな流れは、
呉
↓
一部が楚へ移動
↓
楚の社会・文化の中に入る
↓
呉系楚人
というもの。
つまり「呉系の楚人」は、
呉の文化を持ちながら、楚の要素も持つ集団
という整理になる。
具体例として重要なのが「堂谿氏」
『史記』伍子胥列伝には、呉王・闔閭 の弟である夫概(夫槩)が登場する。
夫概 は 闔閭 と対立し、呉から楚へ亡命した。
その後、
楚昭王から「堂谿」の地を与えられ、堂谿氏となった とされる。
流れを整理すると、
呉王族
↓ 楚へ亡命
↓ 楚王から土地を与えられる
↓ 堂谿氏
となる。
つまり、
呉出身の一族が、楚の中で氏族として存続する
という実例がある。
塚田氏は、この堂谿氏を「呉系の楚人」として扱っている。
「呉 → 楚」は、呉滅亡後だけの話ではない
呉が越に滅ぼされるのは紀元前473年。
しかし、堂谿氏の成立はそれ以前になる。
つまり、
呉係集団が楚へ入る動きは、呉滅亡前からすでに起きていた
ことになる。
その後、呉係集団が楚の中で暮らし、婚姻や文化交流を重ねていけば、
呉の要素 + 楚の要素
を持つ集団になっていく。
これを塚田氏が「呉系楚人」と呼んでいると考えると分かりやすい。
塚田説では、呉・呉系楚・越を分けて考える
塚田氏は、日本列島へ渡った集団を大きく分けて、次のように整理している。
呉系
呉
↓ 倭
↓
奴国・末盧国など
呉系楚
呉系楚人
↓ 東鯷人
↓
熊襲
↓
伊都国・岡国・狗奴国など
越系
越
↓
邪馬台国側
呉系楚人は「呉の要素」も持っている
ここが重要。
塚田氏は、
「呉系楚人は呉の要素をすべて含む」
という趣旨の整理をしている。
そのため、たとえば鯰のような呉系の特徴があっても、それだけで「この集団は呉人」とはならない。
塚田氏の分類では、
呉系の要素
・鯰
・蜈蚣(ムカデ)
・狐
・龍
・牛
など。
そこに、
楚系とされる要素
・猿
・熊
・雷
・青
・亀
・橘
などが加わる集団を、
呉系楚人
として見ている。
では、なぜ東鯷人は「呉人」ではないのか?
『漢書』には、
燕地条
楽浪海中に倭人がいて、百余国に分かれる
とある。
一方、
呉地条
会稽海外に東鯷人がいて、二十余国に分かれる
とある。
つまり中国側では、
倭人 と 東鯷人
は別に記録されている。
塚田説では、先に渡来した呉人を「倭」に対応させている。
そのため東鯷人は、同じ呉系文化を持っていても、
先行する「倭=呉人」とは別の集団
として考える必要がある。
そこで出てくるのが、
後から楚系の要素を取り込んだ呉系集団
という位置づけになる。
先行する呉人と、後発の呉系楚人
整理すると、塚田説では次のような二段構造になる。
先行集団
呉人
↓ 倭
↓
百余国
後発集団
呉系集団
↓ 楚の中に入る
↓ 呉系楚人
↓ 東鯷人
↓
二十余国
今のところの整理
「呉系楚人」という言葉は、中国史上の正式な民族名というより、塚田氏が使っている分類名 と考えるのが分かりやすい。
その中身は、呉出身の集団が楚へ入り、楚の中で氏族として存続する
という堂谿氏の実例をもとにしている。
ひとまず、
呉系楚人=呉文化を持ちながら、楚文化も取り込んだ集団
として整理しておく。
そして、東鯷人を単なる呉人ではなく「呉系楚人」と見る理由をさらに追うには、
堂谿氏
↓ 金属器・製鉄
↓ 秦
↓ 辰韓・弁韓
↓ 日本列島
という流れを確認する必要がある。
まとめ


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