塚田敬章氏の説を読んでいると、日本へ渡来した弥生人は一つの集団ではなく、
呉人
↓ 呉系楚人
↓ 越人
というように、時期をずらして複数の集団が入ってきたとされている。
それぞれがいつ頃日本へ来たと考えられているのか、時系列だけ簡単に整理しておく。
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最初に来た呉人|紀元前5世紀ごろ

塚田敬章氏が、三系統の中で最も早く日本へ渡来したとするのが呉人。
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きっかけになるのは、中国春秋時代の呉の滅亡である。
呉は紀元前473年ごろ、越によって滅ぼされた。
塚田氏は、この滅亡によって国を失った呉人の一部が移動し、
朝鮮半島を経由して日本列島へ渡来した
と考えている。
・
・
時期としては、
紀元前5世紀ごろ。
塚田氏の整理では、この呉人が日本列島に入った最初期の弥生系渡来集団となり、
倭人・韓人
などの名称とも関連づけられている。
・
・
また、
奴国
末盧国
なども、この呉人系の勢力として整理されている。
つまり、
呉の滅亡
↓
呉人の移動
↓
紀元前5世紀ごろ日本へ
という流れ。
次に来た呉系楚人|紀元前2世紀ごろ
呉人より後に登場するのが、呉系楚人。
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塚田氏が特に重視しているのが、呉王闔閭の弟夫概から続く堂谿氏。
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夫概は紀元前505年、呉での争いに敗れて楚へ逃れ、堂谿に封じられた。
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・
そのためこの一族は、
出自は呉
だが、
後に楚へ入った
という二重の系譜を持つことになる。
・
・
塚田氏がいう「呉系楚人」である。
その後、紀元前3世紀末に秦が中国を統一。
塚田氏は、秦が長城建設などのため、楚人や越人を遼東半島方面へ強制移住させたと考えている。
そして秦が紀元前207年に滅亡すると、
楚系集団は南へ逃れ、朝鮮半島南部へ移動。
・
・

その人々が弁辰(弁韓)と呼ばれ、さらに日本へ渡来したとする。
塚田氏の年表では、ツヌガアラシトなどの 弁辰系 渡来を紀元前195年ごろに置いている。
・
・
つまり大まかには、
呉系楚人
↓
秦による遼東方面への移動
↓
秦滅亡
↓
朝鮮半島南部・弁辰
↓
紀元前2世紀ごろ日本へ
という流れ。
塚田氏は、この系統を後の秦氏とも関連づけている。
その後に来た越人|紀元1世紀ごろ
さらに後から日本へ入ったとされるのが、越人。
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ただし、塚田氏のいう越人には複数段階がある。
① 越系集団 → 辰韓 → 日本

秦末の混乱期に、越系集団の一部が朝鮮半島へ入り、辰韓 と呼ばれたとする段階がまずある。
② 後発の越人:閩越・東越・東甌 → 日本
それとは別に、塚田氏が特に重要視するのが、
閩越・東越・東甌 などに関係する後発の越人。
「礎」に敗れた後の「越」

「礎」に敗れた後の「越(東甌・閩越)」
・
・
紀元前109年、漢の武帝によって東越が滅ぼされ、越人の一部は江淮地方へ強制移住させられた。
さらに時代が下り、王莽の新の時代になる。
紀元19年前後、青州・徐州周辺では飢饉や戦乱が続き、多くの住民が流亡。
塚田氏は、その中にいた越人が、

紀元22年ごろ「馬韓」へ移動
その後、
紀元65年ごろ「辰韓」方面へ
さらに、
紀元80~100年ごろ「日本」へ渡来
したと考えている。
・
・
上陸地点として想定されているのが、
福岡県津屋崎周辺。
(現在の福岡県 福津市周辺)
そこから 宗像系勢力 などと結びつき、先住の呉人勢力と対立したとする。
塚田氏は、この「後発越人」を、
漢氏
文氏
とも関連づけている。
・
・
つまり、
東越などの滅亡
↓
江淮地方へ強制移住
↓
新の混乱
↓
馬韓
↓
辰韓
↓
紀元1世紀後半~末ごろ日本へ
という長い移動経路になる。
三系統を時系列で並べると
塚田敬章氏の説をかなり単純化すると、
紀元前473年ごろ
呉滅亡
↓
呉人が日本へ
↓
秦の統一・秦滅亡
↓
呉系楚人が弁辰などを経て日本へ
→ ①
↓
東越東滅亡
↓
新の混乱・馬韓へ移動
↓
越人人が日本へ
→② 後発
という順になる。
・
・
日本に来た順を
かなり大まかに言えば、
呉人
=紀元前5世紀
=紀元前2世紀
=紀元1世紀
というイメージ。
後から来た集団が、先にいた集団を取り込んでいく
塚田氏の説で面白いのは、
新しい集団が来るたびに、前からいた集団が完全に消えるわけではない
というところ。
最初に来た 呉人 は、その後の争いの中で、
呉系楚人 や 越人 に吸収された
とされる。
・
・
さらに塚田氏は、
越人 + 呉系楚人
が連合して、先行していた 呉人系勢力 と争ったものを倭国大乱と見る。
・
・
つまり日本列島内では、
呉人
の上に、
呉系楚人
が入り、
さらに、
越人
が加わる。
・
・
そのたびに、
対立・婚姻・連合・吸収
が繰り返されたというイメージになる。
今のところのメモ
塚田敬章氏の説では、日本への渡来は一度だけではなく、
呉人
↓
呉系楚人
↓
越人
と、数百年単位 で時期をずらして起こったとされている。
・
・
おおよその時期は、
呉人=紀元前5世紀ごろ
呉系楚人=紀元前2世紀ごろ
越人=紀元1世紀ごろ
と覚えておくと分かりやすい。
・
・
ただし「越人」については、塚田氏自身も複数の渡来段階を想定しており、
① 秦末に朝鮮半島へ移動した越人集団集団
と、
② 前漢末~新代の混乱を経て紀元1世紀に日本へ入った後発の越人
は、分けて見ておいた方がよさそう。
今後、神名・氏族・祭祀・髪型などを見ていく際にも、
どの文化要素が、どの渡来段階に属するのか
を意識しておきたい。
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