堂谿氏はどうやって秦氏につながった?という話

東鯷人=呉系楚人について調べる中で気になった、秦氏は「呉系楚人」とされる。

秦氏が「呉王系」だとされる根拠となる「堂谿氏」とのつながりについてのまとめ。

<参考>
・塚田敬章氏「堂谿氏(秦氏の源流)」
・塚田敬章氏「帰化人 秦氏」

<関連記事>
・秦氏はなぜ「呉人」ではなく「呉系楚人」なのか?雷との関係から考える
・東鯷人(トウテイジン)とは?いつ渡来していつ消えた?
・東鯷人(トウテイジン)は呉系楚人?

・「東鯷人」についての記事一覧
・「民族・部族」についての記事一覧
・「秦氏」についての記事一覧
・「塚田敬章」についての記事一覧

当ブログの記事内には、商品プロモーションが含まれています

堂谿氏は、どうやって秦氏につながる?

塚田敬章氏は、秦氏の源流を堂谿氏(どうけいし)に求めている。

その出発点になるのが、

呉王・闔閭(こうりょ)の弟である夫概(フガイ)

という人物。

夫概は呉王族の出身だったが、楚へ逃れ、

楚王から堂谿の地に封じられた ことで、その子孫が堂谿氏になったとされる。

・
・

ここまでは、

呉王族
↓
夫概
↓
楚へ亡命
↓
堂谿氏

という流れになる。

堂谿氏は「呉系楚人」になった

堂谿氏の祖は呉王族。

一方で、その後は楚の領内で長く暮らすことになる。

そのため塚田氏は、

呉の系譜を持ちながら、楚文化も取り込んだ集団

として、

堂谿氏=呉系楚人

と考えている。

つまり、

呉が土台にあり、

そこへ楚の文化が重なった集団ということ。

秦による徴発で遼東方面へ?

その後、秦が楚を滅ぼす。

塚田氏は、秦の始皇帝が楚人・越人などを遼東方面へ移動させた記録をもとに、

堂谿氏もその中に含まれていたのではないか と考えている。

つまり、

楚にいた堂谿氏
↓
秦の支配下に入る
↓
遼東方面へ移動

という流れ。

秦滅亡後、弁辰へ

その後、秦が滅亡すると、

塚田氏は、遼東方面へ移されていた人々の一部が南へ逃れ、

朝鮮半島南部の弁辰

(弁辰:のちの加耶諸国につながる地域)

へ移ったと考えている。

この中に、

堂谿氏=呉系楚人

も含まれていたという見方。

そのため塚田説では、

堂谿氏
↓
遼東
↓
弁辰人

というつながりができる。

そして日本の秦氏へ

さらに弁辰から日本へ渡った一部の人々が、

秦氏

になったと塚田氏は考えている。

ここで重要なのは、

秦氏=秦王朝の王族

という意味ではないこと。

塚田氏の整理では、

もともとは呉王族につながる堂谿氏で、

楚で暮らしたことで呉系楚人となり、

秦の時代に移動させられたことから、

「秦から来た人々」

として秦人・秦氏と呼ばれるようになった、

という流れになる。

整理すると

塚田説では、

呉王族
↓
夫概
↓
楚へ亡命
↓
堂谿氏
↓
呉系楚人化
↓
秦によって遼東方面へ移動
↓
秦滅亡後、弁辰へ
↓
日本へ渡来
↓
秦氏

という移動の流れになる。

つまり、

堂谿氏 → 秦氏

は単純な家系図だけではなく、

呉 → 楚 → 秦 → 朝鮮半島 → 日本

という長い移動史として考えられている。

史料で確認できる部分と塚田説

史料上確認できるのは、

夫概が楚楚へ逃れ、堂谿に封じられて堂谿氏になった

というところまで。

その後の、

堂谿氏 → 遼東 → 弁辰 → 秦氏

という流れは、

塚田氏が史料や伝承、民族・文化要素などをつないで復元した説になる。

参考

・塚田敬章氏「堂谿氏(秦氏の源流)」
・塚田敬章氏「帰化人 秦氏」

<関連記事>
・秦氏はなぜ「呉人」ではなく「呉系楚人」なのか?雷との関係から考える
・東鯷人(トウテイジン)とは?いつ渡来していつ消えた?
・東鯷人(トウテイジン)は呉系楚人?

・「東鯷人」についての記事一覧
・「民族・部族」についての記事一覧
・「秦氏」についての記事一覧
・「塚田敬章」についての記事一覧

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です