塚田敬章氏の説を読んでいると、日本列島へ渡来した弥生系集団の中で、
最も早く来た集団
として位置づけられているのが呉人。
塚田氏は、
呉人
↓
呉系楚人
↓
越人
という順で、日本へ複数の渡来集団が入ったと考えている。
今回は、その中でも最初の層にあたる呉人についてメモしておく。
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呉人はいつ日本へ来た?
塚田敬章氏が呉人渡来の大きなきっかけとするのが、
呉の滅亡。
春秋時代の呉は、紀元前473年ごろ、越によって滅ぼされた。
塚田氏は、この時に国を失った呉人の一部が移動を始め、
朝鮮半島を経由して日本列島へ渡来した
と考えている。
時期としては、
紀元前5世紀ごろ。
つまり塚田氏の説では、呉人はかなり早い段階で日本列島へ入った弥生系渡来集団になる。
呉の滅亡が渡来のきっかけ
呉が滅んだからといって、そこに住んでいた人々がすべて同じ場所へ移動したわけではない。
一部は周辺地域へ残り、
一部は南や西へ移動し、
さらに一部が朝鮮半島方面へ進んだ。
塚田氏は、その移動の中に、
日本列島へ渡った呉人
がいたと考える。
つまり、
呉
↓
越によって滅亡
↓
呉人の移動
↓
朝鮮半島
↓
日本列島
という流れ。
呉人は日本でどのような勢力になった?
塚田氏は、この先行して渡来した呉人を、
倭人
韓人
などの呼称とも関連づけている。
また、
奴国
末盧国
など、北部九州に見える勢力についても、呉人系とみる。
つまり塚田氏の説では、
弥生時代のかなり早い段階から、北部九州を中心に呉人系勢力が存在していた
ということになる。
呉人の後から別の集団がやって来る
重要なのは、呉人が日本へ来たあとも、渡来が終わったわけではないこと。
塚田氏の説では、
呉人
が先に入り、
その後、
呉系楚人
さらに、
越人
が日本へ渡来する。
つまり列島内には、
異なる時期に渡来した複数の中国南部系集団
が存在することになる。
後から来た集団との間では、
対立
連合
婚姻
吸収
などが起きたと考えられている。
最初の呉人がそのまま残ったとは限らない
ここも大事。
塚田氏の説では、
先に来た呉人が、その後も純粋な一集団として残り続けた
というわけではない。
後から来た呉系楚人や越人との接触の中で、
取り込まれたり、混ざったりした
と考えられている。
なので、
呉系の特徴がある
=その人物・氏族が紀元前5世紀に来た呉人そのもの
とは限らない。
もっと後の時代に、
呉人系の文化や血統を取り込んだ別勢力
として残った可能性もある。
今のところのメモ
塚田敬章氏の説では、
呉人は、呉の滅亡をきっかけに紀元前5世紀ごろ日本へ渡来した最初期の弥生系集団
とされる。
その後、
呉系楚人
越人
がさらに日本へ入り、
列島内で複数の集団が混ざっていった。
そのため呉人を見る時には、
「最初に来た集団」
という点と、
後世には他集団の中へ吸収されていった可能性
の両方を意識しておきたい。
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