越人は滅亡後どこへ行った?|東甌・閩越から日本への渡来説(塚田敬章)

中国の「越(エツ)」について。

「越は楚に滅ぼされた」と聞くと、その時点で越人そのものが消えてしまったようなイメージを持ってしまう。

でも実際には、

越という国家がなくなったあとも、越系の人々や王族は各地に残り、その後も別の勢力として続いている。

そして塚田敬章氏は、その後の越人の移動の一部が、日本列島への渡来にもつながったのではないかと考えている。

今回は、

越滅亡
↓
東甌・閩越
↓
漢による住民移住
↓
日本へ渡った越人がいた?

という流れを中心に整理しておく。

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越は楚に滅ぼされた

中国春秋戦国時代の越は、かつて呉を滅ぼした強国だった。

しかし紀元前4世紀になると、今度は楚との争いに敗れる。

紀元前334年ごろ、越王無彊ムキョウは 楚の威王イオウ(姓は羋ビ/ミ、氏は熊、諱は商)と戦って敗北。

(補足:羋ビ/ミ:羊の鳴く声)

その後も越系勢力は残ったものの、紀元前306年ごろまでには楚の勢力下へ入り、国家としての「越」は事実上消滅した とされる。

ただし、

越の国が滅んだ
=越人が消えた

ということではなかった。

ここから越系勢力は、別の形で続いていく。

越王の子孫は残っていた

越王無彊ムキョウの後裔とされる人々は、その後も中国南東部に勢力を残した。

秦の始皇帝の時代には、

騶無諸スウ ムショ:閩越ビンエツの君主

騶搖スウ ヨウ:東甌トウオウの君主

ら越王系の首長が存在していたとされる。

・
・

秦の統一後、かつての王号は失われたものの、

閩中郡の君長

として地域勢力を保っていた。

つまり、

「越王国」はなくなったが、越系首長と越人集団は存続していた

ということになる。

越人は秦を倒す側にも参加した

秦末の混乱が始まると、無諸や搖らは越人を率いて反秦勢力に加わった。

紀元前206年、秦が滅亡。

その後、項羽と劉邦が争う時代になる。

無諸・搖らは項羽から十分な待遇を受けられなかったこともあり、最終的には劉邦側についた。

そして漢が成立すると、その功績によって越王系勢力の地位が再び認められていく。

・
・

ここから、

などの越系国家が登場する。

越は「東甌」と「閩越」として続く

漢代になると、越王勾践コウセンの後裔を称する勢力として、

東甌(トウオウ)

閩越(ビンエツ)

が存在した。

東甌は現在の浙江省南部・温州周辺。

閩越はさらに南の福建省方面を中心とする勢力だった。

つまり、

春秋戦国時代の越
↓
楚によって国家としては滅亡
↓
越王系・越人は各地に残る
↓
東甌・閩越などとして再編

という流れになる。

越は「一度滅びて終わった国」ではなく、

いくつもの越系勢力へ分かれて続いていった

と見た方が分かりやすい。

漢によって住民が大規模に移動させられる

その後、東甌・閩越は漢との争いに巻き込まれていく。

特に気になるのが、

住民の強制移住。

紀元前138年ごろ、東甌は閩越との争いを背景に漢へ救援を求め、その後、住民の一部が漢の領域へ移動した。

さらに紀元前110年前後には、東甌・閩越系勢力が漢によって征服される。

『世界歴史大系 中国史1』では、漢が福建方面の統治を困難と判断し、

東越の民を長江と淮河の間へ移住させた

とされる。

武帝時代 に 漢 は[閩越王]無諸の孫 の 騶丑スウチュウ を 繇王ヨウオウ として立て、東越〔閩越〕国を継がそうとしたが、まもなく騶余善 が 東越王 を自称したため、王が並立する状態となった。

武帝 が南越を攻めるにおよび、余善 は 漢に協力するとみせかけて 南越と通じ、漢の圧迫を受けたためやがて 漢に反旗を翻した。

繇王ショウオウ は他の仲間とともに 前110年、余善を殺して 漢 にくだった。

漢 は彼を他の地に侯として封じ、福建の地は地形的におさめにくいと判断して東越の民をすべて長江と淮河のあいだの地に移住させたため、東越の故地はしばらく空虚地と化したといわれる。

(引用:松丸道雄他 編/世界歴史大系 中国史1 先史~後漢/山川出版社)

つまりこの時期、

越系住民の大規模な移動 が起きている。

この移動の中で日本へ来た越人もいた?

ここからが塚田敬章氏の説で、個人的に特に気になっている部分。

塚田氏は、

漢によって越人が内陸部へ移住させられた時、一部は指定された土地へ行かず、海を渡って日本方面へ移動した可能性がある

と考えている。

・
・

特に、

紀元前138年前後

紀元前110年前後

の越系住民の移動は、日本への渡来を考えるうえで重要なタイミングになる。

・
・

そしてさらに時代が下り、前漢末から王莽の「新」の混乱期にも越系住民の移動が続き、

塚田氏は最終的に、

紀元1世紀ごろ、日本へ入った後発の越系集団 を想定している。

つまり塚田説では、

越人の日本渡来は一度きりではなく、複数回の移動の積み重ね として見ることになる。

塚田氏は越人を後発の弥生系渡来人とみる

塚田敬章氏は、日本列島へ入った中国南部系の渡来人を、

呉人
↓
呉系楚人
↓
越人

という順で整理している。

・
・

その中で越人は、

比較的後から日本へ入った弥生系集団

という位置づけになる。

先行していた呉人系勢力や呉系楚人などと、

対立・連合・婚姻・吸収

を繰り返しながら、日本列島内へ広がったと考える。

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・

塚田氏はその広がりを、

九州
↓
出雲方面?
↓
丹波・摂津
↓
大和
↓
東海
↓
常陸

などへ追っている。

「中国の越」と「日本の越=コシ」は分けて考える

ここは今後のメモでも混同しないようにしておきたい。

この記事で扱っている越人は、

中国の越(エツ)の人々。

・
・

一方、日本には、高志・古志・越=コシ と呼ばれる土地・勢力が存在する。

同じ「越」という漢字が使われているが、

中国の越人=日本の「コシ族」

と最初から同一視するものではない。

まずは別の集団として分けたうえで、

文化・習俗・地名・神話に共通点があるのか?無いのか?を比較していきたい。

今のところのメモ

越は楚に滅ぼされたあとも、その人々まで消えたわけではなかった。

越
↓
国家としては滅亡
↓
越王系・越人は各地に残る
↓
東甌・閩越などとして存続
↓
漢との争い
↓
越系住民の大規模移動

という流れがある。

そして塚田敬章氏は、

こうした移動の中から、日本へ渡った越人もいた

と考えている。

塚田氏の説では、越人は、

呉人
↓
呉系楚人
↓
越人

という渡来の流れの中で、比較的後発の集団。

・
・

日本に入ったあとも、先住・先行していた別系統の渡来集団と混ざりながら、日本列島各地へ広がっていったとされる。

「国が滅びた」という一点だけを見るのではなく、

その後、その国の人々がどこへ移動したのか

を見ると、日本古代史との接点もかなり違って見えてくる。

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