一般に「出雲神」といえば、大国主神・須佐之男命・少彦名神などがまとめて語られることが多い。
しかし「出雲」とは、一つの民族・一つの勢力の国だったのだろうか?
そもそも「島根=出雲」なのか?
という疑問が出てくる。
塚田氏の整理では、出雲(初期の拠点は=出雲郡宇賀郷十六島湾周辺=島根県出雲市周辺)には時期の異なる複数の勢力が入り、協力したり対立したりしながら、のちに大和・紀伊・瀬戸内などへ広がっていく。
ここでは、塚田氏の説の中での「出雲」そのものを、年代の流れが分かるように簡単に整理しておく。
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目次
① 最初に出雲に国を作っていたのは「辰韓人=越人」
塚田氏は、出雲に最初から「大国主一族」が完成した形で存在していたとは考えていない。
塚田氏によれば、先に出雲で国を作っていたのは、
辰韓人=越人
の集団だった。

その首長にあたる存在として、
八束水臣津野命(ヤツカミズオミツノ)=オオナムヂ神
を置いている。
・
・

つまり、塚田説での初期出雲は、
越系の集団が作った日本海側の国
という位置づけになる。
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② 紀元1世紀末~2世紀初め頃、文・漢人が出雲へ入る
塚田氏は、文・漢人の列島への渡来を紀元80年前後に置いている。
この文・漢人は北九州へ渡来すると、宗像氏と同盟して津屋崎周辺に拠点を築き、奴国との戦いにも勝利した。
塚田氏は、この勢力が宗像郡沿岸に不弥国(フミコク)成立させたと考えている。
しかし、その後は北九州でさらに勢力圏を広げることが難しくなり、一部は同族の 辰韓人=越人 が国を作っていた出雲へ移動した
そこで塚田氏は、
九州での勢力拡大をあきらめた文・漢人が、同族の 辰韓人=越人が国を作っていた出雲※a へ移動した
と考えている。
<補足>
※a:
「八束水御神角命」など
(越人が日本へ来た時期)
・
・
そして、その国の上位に入り、融合したという。
この出来事を、塚田氏は大国主神の
幸魂・奇魂が海を照らして出雲へ現れる神話
と重ねている。
塚田氏が最初の建国拠点として注目しているのは、
出雲郡宇賀郷
付近。
北側の十六島湾から入り、宇賀周辺へ進出したと考えている。
ここで出雲は、
越系勢力だけの国
から、
越系+文・漢系が融合した国
へ変化したことになる。
③ 出雲には秦系の勢力も存在していた
さらに話を複雑にするのが、
須佐之男命・少彦名神などの秦系勢力
である。
塚田氏は、
須佐之男・少彦名・五十猛・天日矛
などを、呉系楚人=秦系のグループとして整理している。
つまり、一般には同じ「出雲神」として並べられる
大国主神
と
須佐之男命・少彦名神
も、塚田説では必ずしも同族ではない。
むしろ、
越・文漢系の大国主側
と
秦・呉系楚人の須佐之男・少彦名側
という異なる集団が、
出雲という土地で一時的に協力していた
と見る方が近い。
④ 倭国大乱の頃、出雲勢力は各地へ動き始める
塚田氏は倭国大乱を、
150年頃~172年頃
と推定している。
この頃、出雲を中心にしていた勢力は、さらに各地へ進出していく。
大国主・火明系の文・漢勢力は、
出雲・伯耆
↓
中国山地
↓
伊予
↓
播磨
↓
摂津
↓
山城
↓
大和
という方向へ勢力を広げていったとされる。
一方、
須佐之男・少彦名・五十猛系
など秦系の集団は、後に紀伊・河内方面へ展開する。
つまり、この段階になると、
「出雲勢力」という一つの集団が移動したわけではない。
出雲で一時的にまとまっていた複数勢力が、
それぞれ別方向へ分かれていった
と考えた方が分かりやすい。
⑤ 出雲で協力していた勢力が、後には敵になる
ここが、塚田説の「出雲」を考えるうえで重要だと思う。
出雲では、
大国主側
と
少彦名・須佐之男側
が国作りを共にした形で神話に描かれている。
ところが、その後、
大国主側 → 邪馬壱国・大和方面
少彦名・五十猛側 → 紀伊・狗奴国方面
へ分かれ、
最終的には対立する勢力になっていく。
つまり、
出雲で仲間だったから、ずっと同じ勢力だった
とは限らない。
出雲はむしろ、
異なる勢力が一時的に連合した場所
と考えた方が、塚田氏の説は理解しやすい。
塚田説の「出雲」を簡単に年代順で見ると
【初期】
辰韓人=越人
↓
出雲に国を作る
↓
八束水臣津野命・オオナムヂにつながる勢力
↓
【紀元80~100年代頃】
九州から文・漢人が移動
↓
出雲の越系勢力の上位に入り融合
↓
大国主系勢力が形成される
↓
【その頃】
須佐之男・少彦名など
秦系=呉系楚人も出雲で活動
↓
複数勢力による「国作り」
↓
【150~172年頃・倭国大乱】
出雲の連合勢力が各地へ展開
↓
大国主・文漢系 → 播磨・畿内・大和方面
↓
少彦名・五十猛など秦系 → 紀伊・河内方面
↓
【その後】
かつて出雲で協力していた勢力同士が
大和側と紀伊・狗奴国側に分かれて対立
まとめ|「出雲族」というより、勢力が集まるハブだった?
塚田氏の説を追っていると、
「出雲=出雲族という一つの民族の国」
とは、かなりイメージが違う。
むしろ、
越系
+
文・漢系
+
秦・呉系楚人
などの異なる勢力が集まり、
同盟・融合・再編を繰り返した日本海側の拠点
として見えてくる。
そして、そこから
大和・播磨・瀬戸内・紀伊
などへ、それぞれの勢力が広がっていった。
そのため、
「出雲神だから同族」
と考えると、かえって分からなくなる。
塚田説では、
「その神は、出雲にいた時期があるだけなのか?」
「出雲で誰と同盟していたのか?」
「その後どこへ移動したのか?」
を分けて考える方がよさそうである。
今後、五十猛・高倉下・饒速日・大国主などを追う時にも、この整理を前提にして見ていきたい。
<関連記事>
・五瀬命と紀伊の古い勢力についてのメモ
・五十猛命と紀伊の勢力についてのメモ
※関連記事のURLは仮。実際の記事URLに合わせて変更。
参考
・塚田敬章「弥生の興亡、3 帰化人の真実、3」
https://www.eonet.ne.jp/~temb/5/kika_3.htm
出雲について、辰韓人=越人が先に国を作り、その後、九州から移動した文・漢人が上位に入って融合したとする。
・塚田敬章「弥生の興亡、4 帰化人の真実、4」
https://www.eonet.ne.jp/~temb/5/kika_4.htm
出雲・伯耆から文・漢系勢力が瀬戸内・播磨・摂津・山城方面へ進出する流れや、倭国大乱の推定年代について。
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出雲
<参考資料>

