呉系楚人系の渡来時期|呉から楚へ入った人々と日本へ(塚田敬章)

塚田敬章氏の説の中で、かなり重要な位置を占める「呉系楚人」。

名前だけ見ると少し分かりにくい。

呉人なのか、楚人なのか。

答えは、

呉に出自を持ちながら、その後楚へ入り、楚の中で暮らした人々

というイメージ。

今回は、この呉系楚人がどこから来て、いつ頃日本へ渡来したと考えられているのかをメモしておく。

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「呉系楚人」とは何か

塚田氏が呉系楚人を説明する際、重要な人物として挙げるのが、

夫概。

夫概は呉王闔閭の弟。

紀元前505年、呉国内の争いに敗れ、

楚へ亡命

したとされる。

その後、楚で堂谿に封じられた。

ここから、

呉に出自を持つ
↓
楚へ移る
↓
楚人として暮らす

という系統が生まれる。

塚田氏がいう、

呉系楚人

である。

堂谿氏が重要になる

塚田氏は、夫概から続く系統として堂谿氏を重視する。

つまり、

呉王族系
↓
夫概
↓
楚へ亡命
↓
堂谿氏

という流れ。

ここでは、

呉文化

と

楚文化

の両方を持った集団が生まれることになる。

そのため、塚田氏の呉系楚人論では、

呉系の文化要素

と

楚系の文化要素

が一つの勢力の中に共存する。

日本へ来る前に遼東方面へ移動した?

塚田氏は、呉系楚人がそのまま楚から日本へ来たとは考えていない。

秦が中国を統一したあと、

楚人や越人の一部が遼東方面へ移された

とみる。

そして秦が滅亡すると、

それらの集団が再び移動。

朝鮮半島南部

へ入り、

弁辰

などの勢力を形成したと考えている。

つまり、

呉
↓
楚
↓
遼東方面
↓
朝鮮半島南部
↓
日本

という、かなり長い移動経路になる。

日本への渡来は紀元前2世紀ごろ

塚田氏の年表では、

紀元前2世紀ごろ

に呉系楚人系の渡来を置いている。

呉人が紀元前5世紀ごろなので、

呉人より数百年後

になる。

大まかな順番は、

紀元前5世紀
呉人

↓

紀元前2世紀
呉系楚人

となる。

ツヌガアラシトもこの流れで見る

塚田氏は、

都怒我阿羅斯等

などの渡来伝承も、

弁辰系・呉系楚人系の移動と関連づけて考える。

つまり、日本神話や地方伝承に登場する渡来人物も、

単なる一人の人物ではなく、

朝鮮半島南部から日本へ移動した集団の記憶

として読む。

秦氏との関係

塚田氏の説では、

秦氏

も呉系楚人と強く関連づけられる。

一般的な「秦氏=秦帝国から来た人々」という説明とは少し違い、

呉系の出自を持ちながら楚へ入り、さらに朝鮮半島を経て日本へ来た集団

として見る。

つまり秦氏の中にも、

呉的要素

と

楚的要素

の両方が残ると考える。

呉人とは同じではない

呉系楚人は、

もともと呉系

ではある。

ただし、最初に日本へ来た呉人とは別の渡来波。

ここはかなり重要。

先行呉人
=紀元前5世紀ごろ

に対して、

呉系楚人
=紀元前2世紀ごろ
。

同じ「呉」を祖に持つ可能性があっても、

数百年の時間差

と、

楚文化を経由した違い

がある。

今のところのメモ

塚田敬章氏のいう呉系楚人とは、

呉に出自を持ちながら楚へ入り、その後さらに移動を重ねた集団。

代表的な流れとして、

呉
↓
夫概
↓
楚・堂谿
↓
遼東方面
↓
弁辰
↓
紀元前2世紀ごろ日本へ

という経路が想定されている。

そのため、日本の氏族や神話を見ている際に、

呉的要素と楚的要素が同じ集団の中に混在している

場合には、

塚田氏のいう呉系楚人という分類を思い出しておきたい。

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