厳瓮と忌瓮は何が違う?|古代祭祀の「イツ」と「イワイ」

厳瓮(イツへ)と忌瓮(イハヒへ)は何が違うのか?

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厳瓮(イツ)と忌瓮(イハヒ)は何が違う?

埴(ハニ)と和邇(ワニの関係を調べていたとき、『古事記』崇神天皇段にこんな記述が出てきた。

丸邇坂に「忌瓮」を据えてから、建波邇安王の討伐へ向かう。

ここで気になったのが、

忌瓮(イハヒベ)

という言葉。

一方、『日本書紀』神武天皇紀には、

厳瓮(イツヘ)

という非常によく似た祭器が登場する。


どちらも神祭りに用いる神聖な

調べると、「忌瓮厳瓮も、どっちも一緒(=祭祀道具)だよ♪」みたいな結果がかえってくる。


けれど、

イツ
イワイ

と、わざわざ違う文字・違う言葉で記されている。

違う字を使った事に、意味がないわけないやろう?(「仕様通り」ですよね?)

と思うのが、正直なところですが。

単なる表記揺れなのか。(そんなわけあるかいな)

それとも、祭祀の性格や、それを担った集団に何か違いがあるのか。

『古事記』『日本書紀』の用例を一度並べてみることにした。

「厳瓮(いつへ)」は神武天皇の戦勝祭祀に登場する

まず厳瓮(いつへ)

『日本書紀』神武天皇即位前紀では、大和へ進もうとする神武天皇軍が、八十梟帥兄磯城らによって行く手を塞がれる。

そこで夢に天神が現れ、

天香山の社の中のを取り、平瓮厳瓮を作って天神地祇を祭れば敵は服従する

と告げる。


神武天皇は椎根津彦弟猾に命じて、敵陣を抜けて天香山の土を取らせる。

その埴(ハニから、

八十平瓮
天手抉
厳瓮

を作り、丹生川上で天神地祇を祭った。

つまりここでは、

天香山の埴

埴瓮

厳瓮

という流れが、そのまま物語の中に出てくる。

<参考>
國學院大學 神道・神社史料集成「丹生川上神社」

「埴瓮」をわざわざ「厳瓮」と名づけている

さらに重要なのは、その後。

神武天皇は道臣命に、

高皇産霊尊を自ら顕斎する

と告げ、

道臣命斎主(厳媛に任命する。

そして、

道臣命
埴瓮 →
火 → 香来雷
水 → 罔象女
粮 → 稲魂女
薪 → 山雷
草 → 野椎

と、祭祀に用いるものすべてに(イツ)」を付けて名づけている。


つまり、この場面の「」は偶然付いた漢字ではない。

祭祀全体を「イツ」の状態にする

という、かなりはっきりした命名体系になっている。

厳瓮イツへ)」とは単なる神聖な壺というより、

埴で作った瓮を、「イツ」を帯びた祭器として位置づけ直したもの

と見ることができそう。

<参考>
『日本書紀』神武天皇紀

「厳瓮」の斎主は中臣でも忌部でもなかった

今回調べて一番面白かったのがここ。

この厳瓮祭祀で、

誰が祭祀担当なのか

は『日本書紀』にはっきり書かれている。

である。

道臣命大伴氏の遠祖とされる人物。

神武天皇は道臣命斎主とし、「厳媛」という祭祀上の名まで与えている。

つまり少なくとも『日本書紀』の物語世界では、

厳瓮

イツの祭祀

高皇産霊尊

斎主=大伴氏
祖・道臣命

という組み合わせになっている。

これはかなり重要。

中臣系の祭祀なのか?」とも考えたくなるけれど、記紀本文を見る限り、まず最初に見るべきなのは大伴氏だった。

しかも道臣命武将として戦う人物でもある。

つまり、

軍事担当祭祀担当が、まだ完全に分離していない姿

がここには残っている可能性もある。

<参考>
コトバンク「道臣命」

「忌瓮(いはひべ)」はどこに登場する?

一方の忌瓮

記紀では、少なくとも重要な用例として次の場面が確認できる。

まず『古事記』孝霊天皇段。

大吉備津日子命若建吉備津日子命吉備国を平定する際

播磨の氷河之前に忌瓮を据え、そこを吉備への「道の口」とする


そして『古事記』崇神天皇段。

大毘古命丸邇臣祖・日子国夫玖命建波邇安王を討つため出発する際、

丸邇坂に忌瓮を据える

『日本書紀』崇神天皇紀にも同じ事件があり、

忌瓮を和珥の武鐰坂の上に鎮坐す」

と記される。

<参考>
國學院大學 古典文化学事業「丸邇坂」
國學院大學 神道・神社史料集成「大神大物主神社」

忌瓮には「境界」がついて回る

こうして並べると、厳瓮との違いがかなり見えやすい。

忌瓮は、

播磨から吉備へ入る「道の口

そして、

大和から山背へ向かう丸邇・和珥

に据えられている。

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國學院大學の丸邇坂解説でも、

討伐のために出立するとき、他国との境界で神祭りを行い、戦勝を祈る祭祀

と解釈されている。

つまり忌瓮は少なくとも記紀の用例では、

出発点
道の口

国境・境界
討伐
戦勝祈願

という要素とかなり強く結びついている。

厳瓮が、

祭具・火・水・食・薪・草そのものを「イツ」化する祭祀

なのに対し、

忌瓮は、

境界に瓮を据え、その場所を祭祀的に鎮めてから外へ進む

という使われ方が目立つ。

厳瓮と忌瓮は「別物」なのか?

では、この二つは違う種類の壺なのか。

ここは、そう単純でもなさそう。

井上さやか氏「斎瓮と竹玉」では、

厳瓮の「イツク」と、斎瓮・忌瓮の「イハフ」は、ともに清浄さ・神聖さに関係する語

としながら、

その意味や使い分けは明確ではない

と整理されている。

つまり、

厳瓮と忌瓮は完全に別の祭具

と考える必要はなさそう。

むしろ、

同系統の祭器を、祭祀の性格によって違う言葉で捉えている

可能性を考えた方が面白い。

<参考>
井上さやか「斎瓮と竹玉―祭儀を詠む―」

「厳=イツ」と「忌=イワイ」の違い

今のところ、私はこう整理しておきたい。

厳(イツ)は、

神威・神聖な力そのものを帯びさせる

方向が強い。

神武紀では実際に、

瓮だけでなく、




食物

まで、すべて「厳○○」と改名される。

一方の忌・斎(イハフ)は、

祭祀のために日常から切り離し、斎み清め、神聖な状態を作る行為

に重心があるように見える。

だから仮に同じ「神聖な瓮」でも、

厳瓮
=神威を帯びた瓮

忌瓮
=斎み清めて祭祀に据えられた瓮

くらいのニュアンス差は考えておきたい。

「斎瓮」は第三の祭具なのか?

ここも一度整理しておいた方がよさそう。

一般の辞書では、

忌瓮=斎瓮

として扱われることが多い。

ただし『万葉集』の写本を見ると、

斎戸
忌戸
伊波比倍
以波比弊

など複数の表記がある。

国立歴史民俗博物館の研究でも、

古事記の「忌瓮」や日本書紀の「厳瓮」を参考に、後世の校訂で「瓮」の字を当てているケース

が指摘されている。

そのため、

厳瓮
忌瓮
斎瓮

を三種類の祭器として分けるより、

まず記紀では、

厳瓮/忌瓮

の二つの語彙を比較し、

『万葉集』のイハヒベを別途参照する方がよさそう。

<参考>
国立歴史民俗博物館研究報告「瓫(ホトギ)と瓮・缶(モタイ)に関する覚え書き」

では、忌部・中臣・卜部・土師はどこに入る?

ここで今回の本題だった祭祀職能集団を重ねてみる。

まず意外だったのが、

厳瓮祭祀には大伴氏祖・道臣命が斎主として明記される

こと。

一方、忌瓮を据える吉備平定や建波邇安王討伐では、

忌部・中臣・卜部・土師の名は本文には出ない。

したがって、

忌瓮だから忌部が担当した

とは今のところ言えない。

ただし、後世の祭祀職掌を見ると比較材料にはなる。

律令制では、

中臣 → 祝詞
忌部 → 幣帛

という分担があり、大同元年には両氏が「誰が祈祷・奉幣を担当するのか」をめぐって争っている。

また、卜部は卜占・解除などに関わり、

土師は葬送・埴輪・土器製作など、土を加工する職能を担った。

つまり、

誰が祭祀を主宰したか

と、

誰が占ったか

誰が祭具を整えたか

誰が瓮を作ったか

は、分けて考えた方がよさそう。

<参考>
國學院大學 神道・神社史料集成「枚岡神社四座」

祭祀担当は一氏族だけとは限らない

ここは今後かなり重要になりそう。

後世の国家祭祀では、

中臣が祝詞を担当し、忌部が幣帛を担当する

というように、同じ祭祀に複数の職能集団が参加している。

だから古い祭祀を見るときも、

「この勢力は忌部か、中臣か」

という二者択一ではなく、

政治・軍事主体

斎主

卜占担当

祭具担当

器製作担当

という分業を考えた方がよさそう。

神武紀では、その古い段階の姿として、

軍事指揮官である大伴氏祖・道臣命が、そのまま斎主も務める

という形が描かれているのかもしれない。

「厳瓮」と「忌瓮」を並べると見えてくる違い

厳瓮 忌瓮
読み いつへ いはひべ/いむへ
主な史料 『日本書紀』神武紀 『古事記』孝霊・崇神、『日本書紀』崇神
材料 天香山の 本文では材料不詳
場所 丹生川上 道の口・丸邇坂/和珥坂
目的 天神地祇祭祀・占い・戦勝 討伐前の神祭り・境界鎮祭
特徴 火・水・食などもすべて「厳」化 「据える/鎮坐する」ことが強調される
明記される斎主 道臣命=大伴氏祖 専門祭祀担当の名なし
気になる語 イツ・神威 イハフ・斎戒・境界

こうして見ると、

厳瓮=神聖な「力」を立ち上げる祭祀

と、

忌瓮=境界を斎み鎮める祭祀

という違いは、少なくとも記紀の物語上かなり見えやすい。

そして「ハニ vs ワニ」の場面に忌瓮がある

今回この問題が気になった最大の理由がここ。

建波邇安王を討つのは、

丸邇臣の祖・彦国葺

つまり、

ハニヤス

と、

ワニ

が向かい合う。

しかもワニ側は、

丸邇坂/和珥坂に忌瓮を鎮坐させてから出陣する。

一方、神武紀では、

ハニから作った瓮を「厳瓮」に変える。

すると、

ハニ → 埴瓮 → 厳瓮

と、

ワニ → 丸邇坂 → 忌瓮

という二つの線が見えてくる。

この二つが別々の祭祀伝統を表しているのか。

それとも、同じ古い「瓮を据える祭祀」が、それぞれ別の物語・勢力の中で違う言葉として残ったのか。

ここはまだ決められない。

ただ、ハニとワニの関係を考える上で、「瓮の呼び方まで違っている」ことは、今後かなり重要な材料になりそう。

そして次に「ワニサ」と「ワナサ」を見たい

さらに今回気になっている、

和邇佐(ワニサ)

と、

和奈佐(ワナサ)

奈良のワニ側では、

丸邇坂=境界
忌瓮を据える

という祭祀が現れる。

一方、阿波のワナサ周辺では、

忌部

祭具生産

という別の祭祀職能がちらつく。

だから今後は、

ワニサ=ワナサ

と名前だけを直接つなぐのではなく、

両者の周辺にどんな祭祀形式・祭祀職能集団が存在するのか

を比較してみたい。

まとめ

今回調べて分かったのは、

厳瓮と忌瓮は、単なる漢字違いとして片づけるには使用場面がかなり違う

ということ。

厳瓮は、

埴から作られ、祭祀世界全体を「イツ」化する神武の顕斎

に現れ、その斎主には大伴氏祖・道臣命が任命される。

一方の忌瓮は、

討伐へ向かう「道の口」「坂」「境界」に据えられる祭器

として現れる。

しかも建波邇安王を討つワニ氏祖の出陣祭祀にも登場する。

現時点では、

厳瓮=○○氏
忌瓮=○○氏

と祭祀氏族を割り当てることはできない。

むしろ今回見えてきたのは、

大伴・忌部・中臣・卜部・土師など、それぞれ異なる祭祀職能を持つ集団が、政治勢力の祭祀を分担していた可能性

を考える必要がある、ということだった。

そして何より気になるのが、

ハニから作られる「厳瓮」

と、

ワニの坂に据えられる「忌瓮」

ハニとワニを追っていたところから、祭祀の違いまで見えてきた。

この続きは、

建波邇安王と丸邇臣は、本当にどんな勢力として描かれているのか

をもう少し詳しく調べてみたい。

参考

國學院大學 神道・神社史料集成「丹生川上神社」
― 『日本書紀』神武紀の天香山の埴・厳瓮・顕斎・道臣命について。

國學院大學 古典文化学事業「丸邇坂」
― 丸邇坂の忌瓮祭祀、吉備平定時の忌瓮との比較について。

國學院大學 神道・神社史料集成「大神大物主神社」
― 『日本書紀』崇神天皇紀の建埴安彦討伐・忌瓮・彦国葺について。

井上さやか「斎瓮と竹玉―祭儀を詠む―」『万葉古代学研究年報』24、2026年
― 厳瓮・忌瓮・斎瓮、イツクとイハフの語義・用例比較について。

国立歴史民俗博物館研究報告「瓫(ホトギ)と瓮・缶(モタイ)に関する覚え書き」
― 「瓮」の訓、万葉集写本の「斎戸」「忌戸」など表記上の問題について。

國學院大學 神道・神社史料集成「枚岡神社四座」
― 『日本後紀』大同元年の中臣氏・忌部氏の祭祀職掌争論、神祇令の分担について。

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