東征において、神武天皇が大和攻略に苦戦しているとき、
天香山の土=埴(ハニ)を取ってこい
という話が出てくる。
どこの土でもよいわけではない。
わざわざ敵のいる中を抜けて、なぜ「天香山のハニ」を取りに行かなければならなかったのか?
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神武の夢に「天香山の土」が出てくる
神武が敵に道を塞がれていた夜、夢の中に天神が現れ、
天香山の社の中の土を取り、その土で祭器を作って天津神・国津神を祀れ
と告げる。
この祭祀を行えば、敵を平定できるという。
そして興味深いことに、その直後、宇陀の在地豪族である弟猾(オトウカシ)も、神武にほぼ同じ内容を進言する。
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つまり、
神武が夢の中で天神から得た指示
と、
宇陀の在地勢力が持っていた祭祀知識
が一致している。
ここがかなり気になる。
ハニを取りに行ったのは椎根津彦と弟猾
実際に天香山へ土を取りに行ったのは、
の二人。
敵兵に怪しまれないよう、
椎根津彦=老人
弟猾=老婆
に変装して天香山へ向かい、土を持ち帰る。
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椎根津彦は、のちの倭国造・倭直系の祖とされる人物。
一方の弟猾は、宇陀の在地豪族で、のちに菟田県主につながる人物として描かれている。
つまりこの「ハニ取得」には、
大和・宇陀の在地勢力
がかなり深く関わっている。
ハニから祭器を作る
持ち帰った天香山のハニから、神武は祭器を作る。
その中には、
- 八十平瓮:たくさんの平瓮
- 天手抉:供え物用の手で作った粗末な土器
- 厳瓮:神酒を盛る神聖な土器
などがある。
ここで特に気になるのが、
厳瓮(イツヘ)
という名前。
「ハニ」から作られた器に、今度は 厳=イツ という言葉が現れる。
この「イツ」については、神武東征の同じ場面でさらに大量に登場するため、別記事で整理した。↓↓↓
そして祭祀の場所は「丹生川上」
さらに神武は、その祭器を用いて丹生川上で天神地祇を祀る。
つまり、この一連の流れには、
天香山のハニ
↓
ハニから作った祭器
↓
厳瓮(イツヘ)
↓
丹生川上
という組み合わせが出てくる。
私が今気になっている、
ハニ
イツ
丹
が、神武東征のひとつの祭祀場面にまとまって現れる。
この位置関係については、南大和から紀伊まで含めて別記事に分けている。↓↓↓
そもそも「ハニ」とは何だったのか?
この場面を見ると、ハニは単なる陶器用の粘土だったのか、という疑問も出てくる。
神武は、
その辺の土
を取っているわけではない。
わざわざ 天香山という特別な山の土 を取り、それによって祭器を作る。
ハニには、
ホ(秀)+ニ(丹・泥・土)=ホニ → ハニ
とする語源説もある。
もし「ホニ」が秀でた土・特別な土という意味だったなら、神武紀のこの使われ方とも重なって見える。
ハニそのものの語源については以下の記事に分けた。↓↓↓
誰の祭祀だったのか?
そして、今回いちばん残しておきたい疑問がこれ。
この「天香山のハニ」を使う祭祀は、もともと誰のものだったのか?
丹生川上で祭祀を行う際、道臣命※を斎主とし、女性の名前 厳媛(イツヒメ) で呼んだのはなぜなのか?
※道臣命=大伴氏の祖
(その疑問について別途まとめた記事は以下 ↓↓↓)
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神武は夢の中で天神から祭祀方法を教えられる。
しかし、その直後に弟猾も同じ祭祀方法を知っている。
しかも実際にハニを取りに行くのは、
宇陀の弟猾
と 倭直系の祖・椎根津彦
そのため、
神武が新しく作った祭祀
というより、
宇陀・大和にすでに存在していた祭祀を、神武側が取り込んだ
という読み方も気になっている。
そしてその後、神武側の祭祀には「イツ」が大量に現れる。
さらに、その少し前には、
五瀬命(イツセ)
が東征から退場している。
五瀬そのものについては、別記事で整理する。↓↓↓
最初は「神武がなぜ土を取りに行ったのか?」というだけの疑問だった。
けれど追っていくと、
ハニ 宇陀の在地勢力 イツ 丹生 五瀬
までつながってきた。
この祭祀が、神武以前の南大和にどのような形で存在していたのか。
今後も別々の記事に分けながら追っていきたい。
参考
・國學院大學デジタルミュージアム「丹生川上神社」
・宇陀市「神武天皇聖蹟 菟田穿邑顕彰碑」
・宇陀市「神武天皇聖蹟 丹生川上顕彰碑」
・コトバンク「埴」
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