アマ族とは?|ヒ族より後来とされる「海人」の集団

佐治芳彦『東日流外三郡誌 の原風景』を読んでいて気になった、アマ族という名前。

佐治の記述では、

「ヒ一族は、キ(紀)族やアマ(海人)族よりも先住者」

とあり、アマ族は海人族として登場する。

ただし、この本の該当箇所だけではアマ族について詳しい説明はほとんどない。

そこで今回は、佐治が参照する松岡静雄の記述までさかのぼり、アマ族とはどのような集団として考えられていたのかを整理しておく。

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アマ族は「海人族」

佐治芳彦が紹介する民族層説では、

コシ族 ↓ ヒ族 ↓ キ族・アマ族など ↓ 天孫族

という大まかな前後関係が見えてくる。

この中でアマ族の「アマ」は、

天ではなく「海人」

と説明されている。

つまりこの説でいうアマ族は、

海を生活・移動の基盤とした海人系の集団

として考えられている。

松岡静雄は「アマ族」という名称を実際に使っている

この「アマ族」という呼び方は、佐治芳彦が独自に作ったものではない。

松岡静雄は『日本古語大辞典』の中で、値賀について、

「値賀はアマ族の根據地」

と記している。

ここでいう値賀は、現在の長崎県五島列島周辺につながる古い地名。

さらに松岡は、

アマカ=海人處

という語まで想定している。

つまり松岡の中では、

アマ族
= 特定の地域に集団として居住した海人系の人々

という認識がかなりはっきり存在していたことがわかる。

値賀はアマ族の根拠地

松岡静雄がアマ族の根拠地として挙げた値賀は、九州西方の島嶼部。

現在の五島列島周辺は、

九州本土 ↓ 五島列島 ↓ 東シナ海

へ開く位置にある。

古代の海人集団を考える場所としては、かなり象徴的な地域になる。

陸上交通を中心とする集団ではなく、

島と島 沿岸と沿岸 海峡と海峡

を結んで移動する人々だったと考えると、アマ族の分布は現在の県境や陸続きの地域だけでは追いにくい。

むしろ、

海そのものが道

だった集団として見た方がよさそう。

志賀島も古くから海人族の居住地

松岡静雄は別の著作でも、筑前国の志賀島について、

古来、海人族の占住地として有名

と記している。

志賀島といえば、古代海人氏族として有名な阿曇氏と深く関係する土地。

『新撰姓氏録』では、安曇宿禰は海神系の後裔とされる。

つまり松岡の海人族論を見ると、

値賀 志賀島 安曇

といった、西北九州から北部九州の海上交通拠点が浮かんでくる。

このあたりは、佐治の文章だけではほとんど見えてこない部分。

松岡は「アヅミ・アヅマ」も海人族と結びつける

さらに松岡静雄は、

アヅミ アヅマ

という名称についても、海人族との関係を考えていた。

後世の地理学研究では、松岡説として、

「アヅミ・アヅマは夷人が海人族に与えた呼称」

という説明が紹介されている。

ここで重要なのは、

海人族が必ずしも海岸部だけに留まったわけではない

という点。

安曇系の地名は、海岸だけでなく内陸部にも残る。

長野県の安曇や穂高などが典型的。

つまり海人族は、

海辺に住む漁民

というだけでなく、

海上交通を起点に川や内陸へ入り込んだ移動集団

として見る必要がありそう。

アマ族と阿曇氏は同じなのか

ここは分けておきたい。

松岡がいうアマ族は、必ずしも

アマ族=阿曇氏

という意味ではない。

アマ族はもっと広い、

古い海人系集団

を指す概念として使われているように見える。

その中に後世、

阿曇氏 海部氏 宗像系

など、さまざまな海人系氏族が現れた可能性を考える方がわかりやすい。

つまり、

アマ族
=広い海人系の層

阿曇氏など
=その後、具体的な氏族名として現れる海人集団

くらいに分けておく。

アマ族の祭祀はどのようなものだったのか

佐治芳彦『東日流外三郡誌の原風景』では、アマ族の祭祀について詳しい説明はない。

一方、松岡静雄は、海人族の祭祀についてもいくつかの説を残している。

その一つが、

射楯神

を海人族が祀った神とする説。

射楯神は播磨国総社・射楯兵主神社などに関係する神で、後世の研究でも松岡説として、

海人族が祭った神

と紹介されている。

つまり松岡のアマ族論は、

単に漁業をする人々

という話ではなく、

海上交通・水軍・航海と結びつく祭祀集団

まで含んで考えていた可能性がある。

海神・ワタツミ系との関係

古代の代表的な海人氏族を見ると、

綿津見神 豊玉彦 穂高見

など、海神系の神々との結びつきが強い。

特に阿曇氏は、海神・綿津見系の後裔として系譜化されている。

そのためアマ族を追う際には、

ワタツミ 海神 安曇 志賀島 穂高

というラインは重要な比較材料になりそう。

一方で、

住吉三神 宗像三女神

なども海上交通・航海祭祀に関係するが、

これらすべてをそのまま「松岡のアマ族の神」とすることはできない。

ここは、

松岡が直接アマ族・海人族と結びつけたもの

と、

一般に海人系祭祀として知られるもの

を分けて見ていきたい。

アマ族は「漁民」だけではない

海人族というと、

漁撈 潜水 海産物採取

をまず想像する。

もちろんこれらは重要。

しかし古代の海人集団は、

航海 海上輸送 交易 水先案内 軍事・水軍

などにも関わったと考えられる。

つまりアマ族は、

「海で魚を獲る人々」

というだけではなく、

海を道として使うことのできる集団

と考える方が、その広がりを理解しやすい。

ヒ族より後来とされる

佐治芳彦が紹介する民族層説では、

「ヒ一族は、キ(紀)族やアマ(海人)族よりも先住者」

とされる。

そのため前後関係としては、

ヒ族 ↓ キ族・アマ族

となる。

さらにヒ族より前にコシ族がいたとされるため、

コシ族 ↓ ヒ族 ↓ キ族・アマ族

という順になる。

ただし、

キ族とアマ族のどちらが先か

までは、佐治のこの記述からはわからない。

アマ族と天孫族は別の層

「アマ」という音から、

天 天津神 天孫

を連想しやすい。

しかし佐治が紹介するこの民族層説では、

アマ族=海人族

として登場し、その後に天孫民族が置かれている。

そのため、少なくともこのモデルでは、

アマ族=天孫族

とは扱われていない。

むしろ、

天孫族が来る以前から列島にいた海人系集団

という位置づけになる。

ただし後世、

アマ族の一部が天孫勢力に取り込まれた

海人系氏族が王権の航海・祭祀を担った

といった重なりが生まれた可能性は、別問題として考える必要がありそう。

アマ族は南方系だったのか

ここは今後もう少し掘りたいところ。

後世の古代民族論では、

アマ族=南方系海人

と説明される例もある。

ただし、今回確認できた松岡静雄自身の記述では、

値賀 志賀島 安曇

など海人族の具体的な拠点や名称は確認できるものの、

アマ族を単純に「南方民族」と定義するところまでは、今のところ直接確認できていない。

そのため、

海人族

というところまでは松岡説として押さえ、

南方系かどうか

は別途資料を探していきたい。

この説におけるアマ族の位置づけ

今のところ整理できるのは、

・アマ族=海人系集団 ・松岡静雄自身が「アマ族」という名称を使用 ・値賀を「アマ族の根拠地」とする ・志賀島を古来の海人族居住地とみる ・アヅミ・アヅマも海人族との関係から考える ・射楯神を海人族が祀った神とする説がある ・佐治芳彦の整理ではヒ族より後来 ・キ族と並列に置かれる ・天孫族とは別の層

というところ。

全体の中では、

【より古い】

コシ族 ↓ ヒ族 ↓ キ族・アマ族など ← ここ ↓ 天孫族

【より新しい】

となる。

今のところのメモ

佐治芳彦『東日流外三郡誌の原風景』だけを見ると、アマ族についてわかることは、

「海人族」であり、ヒ族より後来だった

という程度。

しかし松岡静雄までさかのぼると、

値賀=アマ族の根拠地

志賀島=古来の海人族居住地

アヅミ・アヅマ=海人族に関わる名称

海人族による祭祀

など、かなり具体的な像が見えてくる。

アマ族は、

海辺に暮らすだけの集団

というより、

海を移動路として使い、島・沿岸・河川をつなぎながら広がった古い海人系集団

として考えるとわかりやすそう。

今後は、

値賀 志賀島 安曇 海部 宗像 射楯神

などを追いながら、

松岡静雄が想定した「アマ族」の範囲

をもう少し具体的に見ていきたい。

参考資料

・佐治芳彦『東日流外三郡誌の原風景』新人物往来社、1987年
・松岡静雄『日本古語大辞典』刀江書院、1929年
・松岡静雄『有由縁歌と防人歌』1935年
・松岡静雄『日本古俗誌』

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