埼玉県川越市新宿町にある雀ノ森氷川神社について、
雀と製鉄について調べる中で由緒を読み返していて、以前は完全に読み落としていた気になる記述に気づいた。
それが、「東国の金神の総社」という一文。
しかも、その前後の由緒を読み直すと、
金毘羅三社大権現
→ 東国の金神の総社
→ 戦国時代に「稲荷の里」へ移る
→ 旧地に戻って「雀の森」と呼ばれる
という、かなり気になる流れが残されている。
今回は、この由緒についてひとまずメモしておく。
<関連記事>
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目次
雀ノ森氷川神社の古い由緒
雀ノ森氷川神社の現在の祭神は以下の通り↓↓↓
<祭神>
・須佐之男命

由緒については、、『埼玉の神社』をもとに紹介された内容を追うと、現在の「氷川神社」になるまでに、何度も祭祀の形が変化していることがわかる。
↓
② 日本武尊を勧請
↓
③「三社大権現」と呼ばれる
↓
④ 寛平年間以降、須佐之男命・大己貴命・日本武尊・末ノ太郎公・御后を併祀
↓
⑤「金毘羅三社大権現」と称する
↓
⑥ 空海(弘法大師)が金毘羅三社大権現の尊像を刻む(793)
↓
⑦ 尊像を宮中へ納める
↓
⑧ 延喜12年(912)、桃園貞純朝臣(貞純親王)の計らいで宮中に祀られる
↓
⑨ 天慶2年(939)、源経基から尊像が当社へ寄附される
(※ 貞純親王 と 源経基 は父子)
↓
⑩ 天皇の勅願により「東国の金神の総社」とされたと伝える
↓
戦国時代に焼失・荒廃
↓
⑪「稲荷の里」へ移して祀る
↓
⑫ 永正年間に旧地へ戻る
↓
⑬「雀の森」と称する
↓
⑭ 後に氷川神社となる
①太郎俊仁公→②日本武尊
まず伝承では、太郎俊仁公(狭穂彦王か)がこの地に身を寄せた後、老人の夢枕に現れたことから、小祠を建てて祀ったことに始まるという。
その後、日本武尊が当地を訪れ、太郎俊仁公の罪を許し、社地を定めた。
③三社大権現
日本武尊の死後にはその神霊も勧請され、ここから「三社大権現」と呼ばれるようになったとされる。
ただし、この時点でいう「三社」が具体的に何を指しているのかは、由緒からははっきりしない。
④須佐之男命など併祀→⑤金毘羅三社大権現
その後、寛平年間(889~898)を経て、
須佐之男命
大己貴命
日本武尊
末ノ太郎公
御后
を併せ祀り、「金毘羅三社大権現」と称したという。
ここも少し不思議で、祀られている神は5柱なのに名称は「三社」のまま。
そのため、
「三社=この5柱のうち特定の3柱」
という意味ではなく、それ以前から使われていた「三社大権現」という祭祀上の名称を引き継いだ可能性も考えられる。
また、なぜこの神々を祀る社が「金毘羅」と呼ばれたのかについても、現在確認できる由緒だけでは詳しい説明がない。
⑥空海が刻んだという「金毘羅尊像」
さらに由緒は、空海にまつわる伝承へ続く。
延暦12年(793)、若き日の空海がこの三社大権現に出家の大願をかけ、その願いが成就した後、金毘羅三社大権現の姿を自ら刻んだという。
⑦尊像は宮中へ→⑧宮中で祀られる→⑨川越へ帰る
その尊像は宮中の「宝内殿」に納められたと伝えられている。
そして延喜12年(912)、桃園貞純朝臣(貞純親王)の計らいによって、この空海作とされる金毘羅尊像が宮中で祀られたという。
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・
ここで、気になるのは、宮中に納められた尊像が、912に改めて「祀られて」いること。
日本では、「祀る」と「祟る」はセットで存在しがちである。
何か鎮めたい事(=祟り)があったのだろうか?
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さらに天慶2年(939)、源経基から尊像が雀ノ森の社へ寄附される(川越へ帰る)…とある。
なぜ?この時期(912~939)に何があったのだろうか?
「912~939に何があったか?」については以下の記事にまとめました
↓↓↓
⑩天皇の勅願により「東国の金神の総社」とされる
そして、天皇の勅願により「東国の金神の総社」とされたとある。
天皇とは、どの天皇か?については、由緒等には記載されていない。
天慶2年=939年当時の天皇は「朱雀天皇」。
ここにも「雀」の字が出てくるのが少し気になるところである。
⑪「稲荷の里」→⑫⑬雀の森へ
その後、正慶元年(1332)以降は足利氏の崇敬を受け、文和2年(1353)には義寺が建立されて別当となった。
しかし戦国時代になると、この一帯は焼き払われて荒廃。
十一面観音像は失われたものの、金毘羅尊像は焼失を免れたという。
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尊像はその後、「稲荷の里」へ移して祀られ、永正年間(1504~1521)に再び旧地へ戻された。
そして新宿村の鎮守として祀られ、
「雀の森」と呼ばれるようになった。
⑭氷川神社へ変更
さらに後世、社号は氷川神社へ変更され、現在の雀ノ森氷川神社につながったと伝えられている。
祭祀と疑問
現在は須佐之男命を祀る雀ノ森氷川神社だが、由緒だけを見ると、
金毘羅(三社権現)
金神
稲荷
雀
氷川
と、かなり複雑な祭祀の層が重なっている。
- 「三社」とは具体的に何なのか?
- なぜこの祭神構成で「金毘羅」なのか?
- 「東国の金神の総社」の金神とは何を指すのか?
については、現在確認できる由緒だけではまだよくわからない。
むしろ、このあたりに雀ノ森氷川神社の古い祭祀を考える手がかりが残っているようにも思える。
「金神」は祟り神でもある
一般に金神(こんじん)は、陰陽道で方角を司る非常に強い凶神・祟り神として恐れられてきた。
金神が巡る方角で、
移転
旅行
建築
土木工事
などを行うと災いが起こるとされ、その方角を避ける「方忌み」が行われた。
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・
一方で、こうした強い神は、
避けるだけでなく、きちんと祀って鎮めることで守護神として信仰される
こともある。
そう考えると、雀ノ森氷川神社が「東国の金神の総社」とされたという伝承は、
東国の金神を祀り、その荒ぶる力を鎮める中心的な祭祀拠点だった
という意味にも読めそうで気になる。
しかも、この神社には後世、
「雀の森=鎮めの森」
という説明も残されている。
金神
→ 祟り神
→ 祀って鎮める
→ 東国の金神の総社
→ 鎮めの森
と並べてみると、「金神」と「鎮め」が一つの由緒の中で重なって見えるところは、かなり気になる。
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なお、この神社を調べるきっかけの一つになった「雀と製鉄」の話から見ると、どうしても「金」という文字に「製鉄」の要素はないものか?とも考えてしまう。
「金神」に製鉄神の要素は無いのだろうか?
戦国時代には「稲荷の里」へ移されていた
もう一つ気になったのが、「稲荷の里」という地名。
由緒では、戦国時代に雀ノ森周辺が焼き払われて荒廃した際、金毘羅尊像だけは焼失を免れ、
「その後、稲荷の里に移して祀られていた」
と伝えられている。
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その後、永正年間に旧地へ戻り、新宿村の鎮守として祀られ、
「雀の森」
と呼ばれるようになったという。
ここで、「稲荷の里ってどこ?」となる。
「稲荷の里」は川越市古谷上?
調べてみると、川越市古谷上にある天台宗・實相院の公式サイトに、気になる記述があった。
『新編武蔵風土記稿』の記録として、
古谷上のあたりは「三芳野の里」あるいは「稲荷の里」と呼ばれていた
と紹介されている。
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古谷上は現在の川越市東部、荒川に近い地域。
そして雀ノ森氷川神社の由緒の最初の部分でも、太郎俊仁公が東国へ下り、「入間郡三芳野里」に身を寄せたという伝承が登場する。
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つまり、
三芳野の里
=稲荷の里
と呼ばれた地域が、川越に実際にあったことになる。
ここから、
雀ノ森氷川神社の由緒に出てくる「稲荷の里」も、現在の古谷上周辺だったのでは?
と考えたくなる。
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ただし今のところ、
「雀ノ森氷川神社が遷座した稲荷の里=古谷上」
と直接明記した資料までは確認できていない。
ひとまず、有力な候補としてメモしておく。
「三芳野里」と金毘羅大権現をつなぐものも残る
さらに由緒の後記には、別当寺だった義寺に関係するものとして、
「奉納 金毘羅大権現 武刕入間郡三芳野里 義寺」
と刻まれた鰐口が、後に善仲寺へ移されて現存するという話も載っている。
つまり、
金毘羅大権現
+三芳野里
+義寺
という組み合わせについては、由緒だけではなく、鰐口という具体的なものも伝わっているらしい。
このあたりも、雀ノ森氷川神社の古い祭祀を考えるうえでは気になる。
金毘羅・金神・稲荷・雀
雀ノ森氷川神社は現在では「氷川神社」だが、古い由緒を追っていくと、
金毘羅三社大権現
↓
東国の金神の総社
↓
稲荷の里
↓
雀の森
↓
氷川神社
という、かなり複雑な変遷が見えてくる。
・
・
さらに川越市の文化財資料でも、
「雀ノ森」は「鎮めの森」の意ではないか
と紹介されている。
以前は「雀」という名前そのものばかり気にしていたけれど、由緒を読み直してみると、
金毘羅
金神
稲荷
鎮め
雀
と、まだ掘れていない要素がかなり残っていた。
・
・
「東国の金神の総社」の金神とは何なのか?
「稲荷の里」は本当に古谷上なのか?
そして、これらが「雀の森」という名前とどこまで関係するのか。
このあたりは、また資料が見つかれば追記していきたい。
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