東鯷人を調べる中で、出てきた「滇(テン)」という国について。
<参考>
・塚田敬章氏「中国・朝鮮史から見える日本」シリーズ目次
・塚田敬章氏「中国、朝鮮史から見える日本、3」|呉・呉系楚・越の要素
<関連記事>
・「東鯷人」についての記事一覧
・「民族・部族」についての記事一覧
・「コトバと音」についての記事一覧
目次
東鯷人を調べていたら「滇」が出てきた

東鯷人(トウテイジン)について調べていると、塚田敬章氏の古代史レポートの中に、
滇(テン)
という国が出てくる。
滇は東鯷人そのものではない。
場所も、日本や朝鮮半島とは反対方向にある中国南西部・現在の雲南省。
では、なぜ東鯷人を考えるうえで「滇」が出てくるのか?
塚田氏は、
滇=南西へ移動した楚系集団
として、その文化的特徴を、
東へ移動した呉系楚人=東鯷人
を考える比較材料として使っている。
滇(テン)とは?
滇は、現在の中国・雲南省、滇池周辺に存在した古代国家。
『史記』西南夷列伝には、楚の将軍荘蹻(そうきょう)が滇池まで進軍したことが記されている。
その後、秦が楚の巴・黔中方面を奪ったため、荘蹻は楚へ帰れなくなった。
そこで、滇に留まり、その地の王となった とされる。
流れを簡単にすると、
楚
↓
楚将・荘蹻が南西へ進軍
↓ 滇池周辺へ
↓
秦の進出によって楚への帰路が断たれる
↓ 荘蹻が滇に残る
↓ 滇国
紀元前4世紀後半〜紀元前3世紀前半ごろの話
※ざっくり、紀元前4世紀後半〜紀元前3世紀前半ごろ
BC279年頃 荘蹻が滇へ
↓
BC221年 秦が中国統一
↓
BC210年 始皇帝死去
↓
BC207年 秦滅亡
呉も越もすでに国としては滅んだ後の話
つまり滇は、
楚系の人々が遠く離れた地域へ移動し、その土地に新しい勢力を作った例
として見ることができる。
東鯷人と滇は「別方向へ移動した楚系集団」
ここで東鯷人の話につながる。
塚田氏は、東鯷人=呉系楚人 と考えている。
呉系楚人 とは、
呉文化を持つ集団が楚へ入り、楚文化も取り込んだ人々 という整理。
その一部が東へ移動し、
朝鮮半島方面
↓ 日本列島
へ渡った集団が東鯷人だった、と考えている。
一方、楚から南西方向へ移動した例が滇。
整理すると、
東へ向かった楚系集団
呉系集団
↓
楚へ入る
↓ 呉系楚人
↓
東へ移動
↓ 東鯷人
↓
日本列島
南西へ向かった楚系集団
楚
↓
荘蹻
↓
南西へ移動
↓ 滇
という、別方向の動きになる。
塚田氏は「滇の文化」を東鯷人の比較材料にしている
塚田氏の「呉・呉系楚・越」を比較した一覧では、
呉系楚人の髪型
を考えるところで、
「椎髻?(楚人の建てた滇の髪型)」
※椎髻(ツイケイ/スイケイ)
と、滇を比較材料として挙げている。
(引用:塚田敬章氏「中国朝鮮史から見える日本3」)
<補足:椎髻メモ>
・どんな髪型?(画像)
・コトバンク「椎髻」
・コトバンク「石寨山古墓」
・石寨山古墓群遺跡|メコンプラザ
つまり、
滇=東鯷人
と考えているわけではない。
そうではなく、
楚系の人々がどのような文化・服装・髪型・象徴を持っていたのか
を知るために、
南西へ移動した楚系集団が残した滇文化を参考にしている。
滇は、
楚文化の「別ルートの保存例」
のような位置づけになる。
滇王の金印には「蛇」がいる
滇はその後、漢の武帝の時代に漢の勢力下へ入る。
滇王には、「滇王之印」という金印が授けられた。
実際に滇池周辺の古墳から、この「滇王之印」が出土している。
気になるのが、その鈕(つまみ)。
蛇鈕
になっている。
塚田氏の整理では、
蛇
は中国南方の古い文化層に広く見られる重要な象徴。
ミャオ族・ヤオ族・トゥチャ族などにも蛇文化が見られ、
楚や越にも蛇の要素が残っていると考えている。
そのため、
越系の滇
+ 蛇鈕の金印
という組み合わせも、南方系文化を考える手がかりになる。
楚文化そのものが複合文化だった?
塚田氏の整理では、楚人も単純な一民族ではない。
楚文化の基層には、
ミャオ系・トゥチャ系・タイ系など、中国南方のさまざまな文化
が含まれていたと考えている。
楚人系の特徴として挙げられる、
猿/熊/牛/雷/蛇/石/橘/青/火・竈
なども、その複合的な南方文化の中で見ている。
そう考えると、
呉系楚人
という集団も、
単純に
呉+楚
だけではなく、
呉文化
+ 楚文化
+ 楚の中に含まれていた南方系文化
という、かなり重層的な文化を持っていた可能性がある。
滇から見ると「東鯷人」が少し分かりやすくなる
東鯷人について考えるとき、
呉人+楚人=呉系楚人
とだけ書くと、どうしても単純な二民族の混合のように見えてしまう。
しかし滇を見ると、
楚系集団は移動先で現地文化と混ざりながら、新しい集団や文化を作っていた ことが分かる。
南西へ向かった楚系集団は、
滇
という文化を形成した。
一方、東へ向かった呉系楚人は、
東鯷人
として中国史書に現れ、日本列島へ入ってきたと塚田氏は考える。
つまり、
東鯷人も「呉と楚を足しただけの民族」ではなく、長い移動と文化融合を経た集団だった
というイメージの方が分かりやすい。
滇と東鯷人の関係を整理
滇=東鯷人
ではない。
両者の関係は、
「楚文化を共有する、別方向へ移動した集団」
として見ると分かりやすい。
楚文化
↓
【南西へ】
楚人
↓
荘蹻
↓滇
【東へ】
呉系集団+楚文化
↓ 呉系楚人
↓ 東鯷人
↓
日本列島
塚田氏は、
南西に残った滇文化を見ることで、東へ移動した東鯷人=呉系楚人の文化的特徴を考えている
ということになる。
今のところのメモ
東鯷人について調べている途中で「滇」が出てくる理由は、
滇そのものが東鯷人だからではない。
滇は、
楚系集団が別地域へ移動し、その土地で新しい文化を形成した実例
であり、
塚田氏はその文化を、
呉系楚人=東鯷人の文化を復元するための比較材料
として使っている。
特に、
楚系集団が広い範囲へ移動していたこと
移動先で別の文化と融合していたこと
楚文化そのものにも南方系の複数文化が含まれていたこと
は、東鯷人を考えるうえでも重要そう。
東鯷人を、
「呉文化を持つ呉人の一種」
だけで見るのではなく、
呉文化を基層に持ちながら、楚・南方文化を重ねて移動してきた集団
として見るための材料として、「滇」の存在をメモしておく。
参考
・塚田敬章氏「中国・朝鮮史から見える日本」シリーズ目次
・塚田敬章氏「中国、朝鮮史から見える日本、3」|呉・呉系楚・越の要素
・塚田敬章氏「中国、朝鮮史から見える日本、1」|楚・滇・東鯷人など
・『史記』西南夷列伝|中国哲学書電子化計画
・『史記』巻116 西南夷列伝|Wikisource
・中国国家博物館「滇王之印」金印
・中国国家民族事務委員会「滇王之印」解説
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