「イソベ」は史料上どう現れる?|古代の礒部君から中世の礒部氏、越中の伝承まで

磯部」「礒部」という名前を調べていると、古代の人名・氏族名にも、土地名にも、中世の武家の名字にも同じイソベが現れる。

ただし、

同じ「イソベ」だから、すべて同じ一族だった

とは限らない。

逆に、後世に残された系図や由緒を、そのまま古代まで遡らせるのも危ないと思っている。

そこでこの記事では、

「本当にそうだったのか?」はいったん横に置き、文書・地名資料・伝承上では、イソベ がどのような順番で現れるのか

を整理しておく。

史料に書かれた内容をそのまま事実認定するためではなく、

あとから古い層をデバッグするためのログ

として残しておきたい。

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726年|金井沢碑に「鍛師 礒部君身麻呂」

現在確認できる重要な資料の一つが、群馬県高崎市に残る金井沢碑

神亀3年(726年)に建てられた石碑で、その碑文には、

鍛師 礒部君身麻呂イソベノキミミマロ

という人物が記されている。

【金井沢碑の碑文】
上野国群馬郡下賛郷高田里
三家子▲為七世父母現在父母
現在侍家刀自他田君目頬刀自又児加
那刀自孫物部君午足次〔馬爪〕刀自次乙〔馬爪〕
刀自合六口又知識所給人三家毛人
次知万呂鍛師礒部君身麻呂合三口
如是知識結而天地誓願仕奉
石文
神亀三年丙寅二月二九日

▲=欠字

読み下し

上野国(かみつけぬのくに / こうずけのくに)群馬郡(くるまのこおり)下賛郷(しもさぬのさと)高田里(たかだのこざと)の三家子▲が、七世父母と現在父母の為に、現在侍る家刀自他田君目頬刀自(おさだのきみめづらとじ)、又児の加那刀自(かなとじ)、孫の物部君午足(もののべのきみうまたり)、次に〔馬爪〕刀自(ひづめとじ)、次に若〔馬爪〕刀自(わかひづめとじ)の合せて六口、又知識を結びし所の人、三家毛人(みやけのえみし)、次に知万呂、鍛師(かぬち)の礒部君身麻呂(いそべのきみみまろ)の合せて三口、是の如く知識を結び而して天地に誓願し仕え奉る石文。神亀三年丙寅二月二十九日

現代語訳

上野国 群馬郡 下賛郷 高田里 に住む三家子▲が(発願して)、祖先および父母の為に、ただいま家刀自(主婦)の立場にある他田君目頬刀自、その子の加那刀自、孫の物部君午足、次の〔馬爪〕刀自、その子の若〔馬爪〕刀自の合わせて六人、また既に仏の教えで結ばれた人たちである三家毛人、次の知万呂、鍛師の礒部君身麻呂の合わせて三人が、このように仏の教えによって(我が家と一族の繁栄を願って)お祈り申し上げる石文である。神亀3年丙寅2月29日

上野国について

8世紀初頭:上野国コウズケノクニ/カミケツノクニ

7世紀末:上毛野国カミツケヌノクニ

5世紀末頃?:上毛野カミツケヌ

4世紀頃?:毛野ケノ/ケヌ

補足

(諸説あり)

 

三家子▲: 「三家子孫」と読む説と、欠字とみて「三家子▲」という個人名であるとする説がある

三家(ミヤケ)

=ヤマト政権の地方支配拠点(豪族の屯倉)であった「佐野三家(サノノミヤケ)」を経営した古代豪族・三家(みやけ)氏の一員

三家の戸主は三家毛人(ミヤケノエミシ)

金井沢碑に刻まれる「三家」は山ノ上碑に刻まれる「佐野三家」であると考えられてきたが、最近の発掘調査により史料上知られていないミヤケの存在が確実視されているため、「三家」が「佐野三家」とは別のミヤケである可能性もある。

なお、高崎市の現在の解説では、金井沢碑の登場人物は、三家子▲を中心とする六人の家族グループと、三家毛人知万呂礒部君身麻呂の三人からなる別のグループに分けて説明されている。

三家毛人知万呂については、同族とみられる兄弟とされているが、

礒部君身麻呂 三家氏と具体的にどのような血縁関係にあったのかは分からない

つまり、

金井沢碑に一緒に名前がある=身麻呂 三家氏の血族

ではなさそうだ。

鍛師 礒部君(イソベノキミ)

礒部君」は イソベノキミ

さらに、その前には 鍛師(かぬち)とある。

高崎市は鍛師について、

製鉄や金属加工に携わる職

と説明している。


つまり8世紀前半の上野国周辺には、

礒部君」を名乗り、金属加工に関わっていた人物

が文書ではなく、実際の石碑に刻まれて残っている。

これはかなり重要なログだと思う。


もちろん、

イソベ製鉄集団

と一例だけで決めることはできない。

ただ、「イソベ」と金属加工が同じ資料の中で確認できることは、今後ほかの地域のイソベを比較するときに覚えておきたい。

「礒部君身麻呂」は誰だったのか?

金井沢碑 に登場する他の人物については、三家ミヤケを中心とした家族関係がある程度復元されている。

ところが、

鍛師 礒部君身麻呂イソベノキミミマロ

については、三家ミヤケとの具体的な血縁関係が分からない。

碑文では、

三家毛人
知万呂
鍛師 礒部君身麻呂

の三人が、

「又知識所給人」

としてまとめられている。


ここでいう「知識」は、単に「知識がある人」という意味ではなく、仏教の教えによって結ばれた人々を指す。

つまり、史料から確実に読めるのは、

身麻呂三家氏の血族だった

ことではなく、

三家氏らと同じ仏教的な結縁集団に参加していた

こと。


高崎市の解説では、三家毛人ミヤケノエミシ知万呂 は同族とみられる兄弟とされる一方、身麻呂 には具体的な血縁線が引かれていない。

現時点では、

上野国にいた「礒部君」という集団の一人で、鍛師という金属加工 の職掌を持ち、三家氏物部君氏 などと同じ地域の信仰ネットワークに参加していた人物

くらいに置いておくのがよさそうだ。

誰の子なのか。
誰の夫なのか。
三家氏と婚姻関係にあったのか。

そのあたりは、今のところ分からない。

765年|甘楽郡の「物部蜷淵」らが物部公を賜姓

766年の 礒部牛麻呂イソベウシマロ を見る前に、前年の記録も置いておきたい。

『続日本紀』天平神護元年(765年)11月1日条には、上野国 甘楽郡 の人物として、

物部蜷淵モノノベノニナフチ

ら五人が登場し、

「物部公」

という姓を与えられたと記録されている。


つまり、

765年
甘楽郡・物部蜷淵モノノベノニナフチ
→ 物部公を賜姓

という記録がまずある。

その翌年に、同じ 甘楽郡礒部牛麻呂イソベウシマロ らにも「物部公」が与えられる。

この二年続けての賜姓は、上野国 の「物部」と「礒部」の関係を考えるうえで覚えておきたい。

ただし、これもすぐに、

礒部=物部

と読む材料にはしない。

766年|『続日本紀』に「礒部牛麻呂」

726年の「金井沢碑」から約40年後。

『続日本紀』天平神護2年(766年)5月20日条には、上野国 甘楽郡 の人物として、

礒部牛麻呂イソベウシマロ

ら四人が登場する。

そして彼らには、

「物部公」

という姓が与えられたと記録されている。

726年の 礒部君呂イソベノキミ身麻呂ミマロと、766年の 礒部牛麻呂ウシマロ が直接同じ一族だったのかは分からない。

ただ少なくとも、

8世紀の上野国 周辺に「礒部」を名乗る人々が 複数の史料に現れる

ことは確認できる。

そして、

礒部牛麻呂 → 物部公を賜姓

という記録も気になる。

ただしこれは、

イソベ はもともと物部だった

ことを証明する史料ではない。

むしろ、

8世紀の時点で「礒部」を名乗る人々に対し、「物部公」という新しい姓が付与された

というログとして見る方がよさそうだ。

古い集団名に、後から別の氏族名・姓が重なる例として、今後のデバッグポイントにしておきたい。

「身麻呂」と「牛麻呂」は同じ人物なのか?

ここでもう一つ、ややこしいログがある。

金井沢碑の人物は、現在の高崎市の釈読では、

礒部君身麻呂

と読まれている。

ところが、後世の『大日本史』では、物部氏の項で、

「神亀碑に 鍛師磯部君牛麻呂 あり、即ち是なり」

という趣旨の注記があり、

金井沢碑の人物=『続日本紀』に出る礒部牛麻呂

と同一人物として扱っている。

つまり、古い釈読・研究の中には、金井沢碑の人物を牛麻呂と読んだ例があった。

しかし、現在の高崎市の碑文釈読では身麻呂

そのため、この記事では、

726年 礒部君身麻呂
766年 礒部牛麻呂

を別人として扱う。

ただし、

過去には両者を同一人物とみる読み方が存在した

こと自体は、史料を読む上で重要なログだと思う。

石碑の一文字の釈読が変わるだけで、人物の系譜や氏族史の組み立てまで変わってしまう。

ここもデバッグポイントとして残しておきたい。

身麻呂・牛麻呂・礒部郷は「同じ場所」ではない

もう一つ注意しておきたいのが、場所。

三つの記録を並べると、

726年
礒部君身麻呂
上野国 群馬郡 下賛郷

766年
礒部牛麻呂
上野国 甘楽郡

『和名抄』(931年~938年)
礒部郷
上野国 碓氷ウスイ

となる。

つまり、

群馬郡
甘楽郡
碓氷郡

と、記録される郡はそれぞれ違う。

そのため、

「金井沢碑の身麻呂が住んでいた場所が、そのまま後の礒部郷になった」

とは言えない。

一方で、いずれも上野国西部に現れるログではある。

今のところは、

一つの土地に一直線につながる

というより、

上野国西部の複数地域に「礒部」を名乗る人物や「イソベ」という地名が確認できる

くらいに置いておきたい。

『和名抄』|上野国に「礒部郷〈伊曾部〉」

10世紀頃に成立した『和名類聚抄』では、上野国碓氷郡に、

礒部郷

が記されている。

東急本では、その訓が、

「伊曾部」

とされる。

つまり、

礒部
= 伊曾部
= イソベ

という対応が確認できる。

現在の群馬県安中市磯部と、その周辺が遺称地と考えられている。

ここで大事なのは、

「礒」という漢字から後世の研究者がイソベと推測したわけではない

こと。

伊・曾・部

という表音的な文字によって、

イ・ソ・ベ

という音そのものが残されている。

私は今のところ、漢字の「磯」「礒」「石」よりも、

先に「イソベ」という音を軸にして見た方がいいのではないか

と考えている。

「礒部」と「磯部」はどちらが古いのか?

ここも整理しておきたい。

現在は「磯部」という表記をよく見るため、

磯部 → 礒部

あるいは逆に、

礒部 → 磯部

と、一方向に文字が変化したように考えたくなる。

しかし史料を見ると、そんなに単純ではなさそうだ。

たとえば信濃国埴科郡のイソベ郷では、

高山寺本:礒部〈以曾ヘ〉

に対し、

流布本:磯部〈伊曾倍〉

とされる。

同じ「イソベ」について、

礒部

磯部

が写本によって入れ替わっている。

上野でも、8世紀にはすでに礒部という表記が確認できる。

そのため、

「礒」は中世以降に生まれた特殊な字体

とは考えにくい。

一方で、

「礒の方が必ず古く、後から磯になった」

とも現段階では言えない。

むしろ、

先に「イソ」という音があり、その音を表す漢字として「礒」「磯」などが並存した

可能性を考えておきたい。

1201年|佐々木盛綱が「上野国磯部郷」にいた

ここから時代が大きく下る。

建仁元年(1201年)の『吾妻鏡』には、鎌倉幕府の御家人佐々木盛綱の住所として、

上野国磯部郷

が登場する。

盛綱は出家後、西念と名乗っていた。

越後で城氏の反乱が起きた際、幕府からの命令が、

「西念が住所 上野国磯部郷」

に届けられたと記されている。

つまり鎌倉時代初頭には、

佐々木盛綱が上野国の磯部郷を拠点の一つとしていた

ことが分かる。

しかし、この磯部という土地名は、

佐々木氏が来るより何百年も前から確認できる。

すでに、

726年 礒部君身麻呂

766年 礒部牛麻呂

『和名抄』 礒部郷〈伊曾部〉

という古いログがある。

そこへ鎌倉時代になって、

佐々木盛綱

が入ってくる。

この順番はかなり重要だと思う。

『尊卑分脈』では加地信実の子・秀忠を「礒部」とする

さらに後世の系譜資料『尊卑分脈』では、

佐々木盛綱の子加地信実の子・秀忠について、

「礒部」

とする系譜が伝えられている。

文書上の系譜を単純化すると、

佐々木盛綱

加地信実

秀忠「礒部」

となる。

ここから中世武家としての磯部氏・礒部氏につながるとされる。

ただし、ここで絶対に分けておきたい。

これは、

古代から続いていた礒部君が佐々木氏になり、その子孫が再び礒部氏になった

という意味ではない。

史料上はむしろ、

古くから「イソベ」と呼ばれた土地・人々が存在する

中世になって佐々木氏系の武家がその磯部郷に入る

その一族が「礒部」を名字として名乗る

という、別レイヤーが重なった可能性を考えた方が自然に見える。

中世の礒部氏の系譜だけを見て、

「イソベの起源=宇多源氏・佐々木氏」

としてしまうと、それ以前の古いイソベが消えてしまう。

越中・氷見の礒部神社にも別の「イソベ」ログがある

さらに気になるのが、富山県氷見市磯辺に鎮座する礒部神社

『延喜式』神名帳に見える越中国射水郡の礒部神社に比定される古社の一つで、現在は天日方奇日方命を祭神としている。

この神社については、

礒部氏の一族が伊勢国を離れて北国へ入り、八代谷を開拓し、祖神を祀った

という伝承が紹介されている。

ただし、この「伊勢から来た」という移住伝承については、現時点で私は古い一次資料まで確認できていない。

そのため、

「礒部氏は伊勢から越中へ移住した」

と確定事項にはせず、

当地に伝わる移住伝承

としてメモしておく。

「イソベの宮には戸は立たぬ」

この氷見の礒部神社には、さらに気になる伝承がある。

神社探訪サイト「玄松子の記憶」では、『式内社調査報告』の記述として、

「イソベの宮には戸は立たぬ」

「礒部の神様戸を嫌い」

という言い伝えが紹介されている。

そのため、かつて拝殿には戸がなかったという。

また、昭和58年(1983年)発行の『富山県神社誌』には、戸のない拝殿の写真が掲載されていたという。

現在はガラスの覆いなどが設けられ、かつてとは社殿の姿が変わっているようだ。

この伝承がいつ成立したものなのかは分からない。

ただ、現在別のところで調べている越前国今立郡には、

「勝戸郷=イソベ」

という非常に気になる地名がある。

越前の勝戸郷と、越中の礒部神社は別の土地。

当然、

「勝戸」の「戸」と、「礒部の神様は戸を嫌う」という伝承が直接関係している証拠はない。

ただ、

イソベという名称

「戸」

が、別地域の資料で妙に接触していること自体は覚えておきたい。

「戸を立てない」という祭祀習俗が先にあり、後から「礒部の神は戸を嫌う」と説明されたのかもしれない。

逆に、イソベという名前や別の伝承から、後世に生まれた言葉遊び・民間語源の可能性もある。

現時点では結論を出さず、

「イソベと戸」

というデバッグポイントとして保留する。

礒部神社は「火宮権現」とも呼ばれていた

さらに、この礒部神社は過去に、

火宮権現

あるいは、

山王社

などと称された時期があったという。

社名だけでなく、祭神も時代によって変化している可能性がある。

そのため、

現在の祭神・天日方奇日方命を、そのままこの神社の最古の祭神と考えるのも慎重にしたい。

ただ、ここでどうしても思い出すのが、上野の金井沢碑。

そこには、

「鍛師 礒部君身麻呂」

とある。

一方、越中の礒部神社には、

「火宮権現」

と呼ばれた時期がある。

地域も時代も異なるので、

「イソベ=火・鍛冶・製鉄の集団」

と結論づけることはできない。

それでも、

上野:イソベ+鍛師
越中:イソベ+火宮

という組み合わせは、今後イソベの古い性格を考えるときの比較材料として残しておきたい。

文書上の「イソベ」を時系列で並べる

ここまでの流れを、いったん時系列だけで並べる。

726年
上野・金井沢碑
「鍛師 礒部君身麻呂」

765年
『続日本紀』
上野国甘楽郡「物部蜷淵」らが「物部公」を賜姓

766年
『続日本紀』
「礒部牛麻呂」らが「物部公」を賜姓

10世紀頃
『和名抄』
上野国碓氷郡「礒部郷」
東急本訓「伊曾部」

1201年
『吾妻鏡』
佐々木盛綱の住所として「上野国磯部郷」

中世系譜
『尊卑分脈』
加地信実の子・秀忠を「礒部」とする

これとは別に、越中・氷見の礒部神社には、

・礒部氏の伊勢からの移住伝承
・「イソベの宮には戸は立たぬ」
・「礒部の神様戸を嫌い」
・「火宮権現」と称された時期

などの伝承ログが残る。

「史料の初見=イソベの始まり」ではない

ここは一番大事なので、改めて書いておく。

726年に礒部君が確認できるからといって、

イソベという集団名や地名が726年に生まれた

わけではない。

それは単に、

現在確認できる文字史料の一地点

にすぎない。

私が知りたいのは、むしろその下にある層。

文字史料に現れるより前から、「イソ」「イソベ」という音や集団が存在したのではないか?

という部分。

その古い層を見るには、




勝戸

といった後世の漢字表記をいったん剥がして、

イソ
イソベ

という音そのものを追う必要がありそうだ。

今回見えてきたデバッグポイント

まず、

「礒部」は中世に突然生まれた表記ではない。

8世紀の上野国ですでに礒部君・礒部牛麻呂が確認できる。

そして、

磯部・礒部よりも、「イソベ」という音を軸に見る必要がありそう。

『和名抄』には「伊曾部」「以曾ヘ」「伊曾倍」など、音そのものを示す訓が残っている。

また、

古代の礒部君と、中世の宇多源氏系礒部氏は、いったん別の層として考える。

後世の武家が古くから存在した土地名を名字として引き継ぐことは十分あり得る。

金井沢碑については、

礒部君身麻呂は「鍛師」であることは分かるが、三家氏との具体的な血縁関係は分からない。

分かるのは、三家毛人・知万呂とともに「知識」のグループに入り、同じ仏教的な結縁に参加していたことまで。

さらに、

765年 甘楽郡の物部蜷淵ら → 物部公
766年 甘楽郡の礒部牛麻呂ら → 物部公

という連続した賜姓記事もある。

そして後世には、金井沢碑の身麻呂を「牛麻呂」と読み、766年の牛麻呂と同一人物とみた例もある。

現在は「身麻呂」と読むため別人として扱うが、

碑文の釈読そのものにも変遷がある

ことは覚えておきたい。

さらに、

上野の「鍛師 礒部君」
越中の「火宮権現」
越中の「戸を嫌う」伝承
越前の「勝戸=イソベ」

という、すぐには結びつけられないが妙に引っかかるログも出てきた。

現時点では一本の物語にまとめず、

「あとで一致するかもしれないバグログ」

として残しておく。

今後確認したいこと

今後は、

上野の「イソベ」が文字史料以前まで遡れるのか。

また、上野国内でも、

726年 群馬郡の礒部君身麻呂
766年 甘楽郡の礒部牛麻呂
『和名抄』 碓氷郡の礒部郷

と、記録される場所は同じではない。

これらが、

同じ地域集団の広がりなのか。
別々の土地に存在した「イソベ」なのか。

ここも今後確認したい。

そして、

越中・越前・信濃・三河など各地のイソベが、どこまで共通するのか。

さらに、

石部・磯部・礒部・以曾部・以曾倍・勝戸

という表記が、同じ「イソベ」という音をどのように書き分けているのか。

とくに、

なぜ越前では「勝戸」と書いて「イソベ」と読むのか。

ここは引き続き追いたい。

また、

鍛師礒部君と金属加工
礒部神社の火宮権現
礒部牛麻呂への物部公賜姓

についても、別地域の資料と比較したい。

まずは、

後から付いた氏族名・祭神名・漢字表記を一枚ずつ剥がし、その下に残る「イソベ」という音を見る。

そこから古い層を探っていきたい。

参考

国立歴史民俗博物館研究報告 第211集
『続日本紀』巻第二十六
『続日本紀』巻第二十七
『大日本史』巻之二百六十七「氏族一」
高崎市「上野三碑:金井沢碑」
『日本歴史地名大系』「礒部郷」(コトバンク)
安中市教育委員会ほか『磯部城―砂防施設事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書―』
『尊卑分脈』国立国会図書館デジタルコレクション
レファレンス協同データベース「富山県氷見市磯辺『礒部神社』について」
玄松子の記憶「礒部神社(氷見市)」
・『式内社調査報告』第17巻 北陸道3「礒部神社」
・『富山県神社誌』(富山県神社庁、1983年)

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